邪鬼、奥河内の青賀原神社で梁を支える【葉隠の美】

堺の岩室から分岐した天野街道は、陶器山の尾根筋を通り天野山金剛寺に至る。青賀原神社は、その天野街道に面して鎮座している。
当社の祭神は、頭九つの大蛇から空海を助けた丹生(にう)大明神である。言い伝えでは、高野明神が丹生大明神に化身して出現、大蛇を退治したと伝えられ、そのため高野明神もまた祭神として祀られている。
当社の創建は、治承四年(1180)と伝えられているが、現在の本殿は江戸初期に造営されたものと考えられている。
仏教の世界では、寺院を守り、仏教を守る金剛力士や仁王が入口に配され、持増天や増長天などに踏み付けられている邪鬼(じゃき)を見る。しかしながら軒下などで本堂などの建屋の梁を支え、重労働を課せられている邪鬼もいる。
法隆寺の五重塔で軒を支えている邪鬼は、1400年もの長きに渡り、この重労働に耐えてきたのであろうか。気の毒なことである。
邪鬼、奥河内の青賀原神社邪鬼は、仏さまと異なり、その表情は奇抜で、その姿も個性的である。そのため何となく可笑しく、また憎めない。仏師が造ったのか、工芸人と呼ばれるような人たちが刻んだのか、よく知らないが・・。 
もし仏師が造ったとしたら、多分に遊んでいるようにも感じれる。しかしながら仏師が決して手を抜いていないことは、その作品の迫力から想像できる。
私はこのような像に“邪鬼”と呼ぶことに少し抵抗を感じる。“力士像”では少したいそうであるし、“仁王像”とは到底呼べない。さて何と呼んだらいいモノやら。困ってしまう。
楼門などでは、邪鬼はいつも多聞天などに踏み付けられているが、改心して仏法の役に立ちたいと軒を支えているのであれば、誠にけな気でししょうな心掛けである。ならば、“邪”とか“悪”などと呼ばず、○○力士とか、遠州や尾張地方の山車や社寺で用いられている力神(りきじん)という言い方も良いのではと思う。

ところでこの邪鬼(力神)はいったい建物の何処で力を発揮しているのであろうか。
まず第一は、建物の四隅で隅木を支えている「隅木支え型」、第二は蝦虹梁(えびこうりょ)に座って屋根を支えている「蝦虹梁型」、第三は、蟇股で梁を支えている「蛙股鎮座型」、そしてこれらの内の二つを組み合わせた「合成型」もある。
さらにそれらの像が、どのような“座り方”をしていて、さらにどのような姿で支えているか、にも違いがある。
まず“座り方”であるが、像が胡坐をかいて支えている「胡坐型」、正座して支えている「正座型」、しゃがんで支えている「シャガミ型」、片膝を立てて座る「片膝型」、片足をぶら下げて座る「片足型」があるが、一方“支え型”では「両手支え型」、「片手支え型」、さらに「腕組型」「頭・背中支え型」もある。
ちなみに青賀原神社の邪鬼は、“蝦虹梁”に“胡坐”をかいて座り、“頭・背中”で梁を支えているようである。
横山 豊