日本の歴史は、河内長野から始まる!!?

日本の歴史は、何時も河内長野から始まった。
高向神社古くは大化の改新。この時活躍したのが当地出身の高向玄理(たかむこのくろまろ)である。玄理は推古16年(608)遣隋使として隋に留学、欽明12年(640)帰国、その間32年にわたり在唐。改新後は国博士(くにのはかせ)として、あるいはまた東アジアにおける我が国の地位安定のため外交官としても活躍した。
ここから日本の「律令国家」が始まったのである。

そして鎌倉幕府は、河内源氏の源頼朝によって樹立された。頼朝の叔父・源行家は「長野ノ館」に籠ったが、ここは今の長野公園や烏帽子形城跡に比定されている。しかし頼朝が伊豆に流されたことにより武家政権の拠点は鎌倉に置かれることになったが、日本最初の「武家政権」は河内源氏が打ち立てた。そしてここから「中世封建時代」が始まったのである。

それから140年後、建武の中興の立役者・楠木正成は、河内長野と千早赤阪に拠点を置いて後醍醐天皇を助け、古代社会の再現を夢見た。時代は、古代社会の再現か、それとも中世封建社会の継続か、の選択が迫られていた。
しかし時代は嘘をつかない。時は正しく流れ、次の武家政権・室町幕府へと引き継がれていった。
楠公騎馬仮にこの時、日本の歴史が古代に舞い戻っていたら、戦国時代は無かったであろう。しかし武士団がいないため、安土桃山時代に来航したヨーロッパ勢に日本は侵略されていたかも知れないし、幕末には間違いなく侵略され植民地にされていたことであろう。
祈ることしかできない公家では、国を守ることはできない。元寇の時もそうであったが、日本の国を守ってきたのは、何時の時代も武士であった。

次に、安土桃山時代を開いた織田信長は、一向宗や天台宗の総本山比叡山に代表される宗教勢力との戦い・宗教戦争に明け暮れた。そしてその後を担った豊臣秀吉もまた真言宗の総本山高野山との戦いを強いられた。秀吉は、紀州の西部に位置する根来、雑賀などの宗教勢力を討伐するため、東から高野街道を遡ってくる高野山の侵攻を警戒し、岸和田の城主・中村一氏に命じて河内長野に城を構築させた。これが平成24年、国の史跡に指定された烏帽子形城である。
烏帽子その後、秀吉は、高野山の応其(おうご)上人と和睦することにより、武家対仏教勢力との戦いが終わり、ここに日本の「中世」が、終焉したのである。
そして江戸時代に入ると、仏教勢力は、寺社奉行の支配下に置かれることになり、日本の「近世」が始まった。
近世は、河内長野に烏帽子形城を築くことによって始まったのである。

さらに今(平成25年)から150年前の文久3年(1863)、河内長野に隊列を組んだ武士団が現れ、三日市宿の油屋に休憩、ここで河内勢が合流。そして戦勝祈願をするため観心寺の楠公首塚を参拝、それから千早峠を越えて奈良・五條の代官所を襲撃した。これが世に言う「天誅組の変」である。そしてこの変の4年後、日本は明治維新を迎えた。
日本の「近代」は、ここから始まったのである。

このようにみていくと、日本の政治史上の四大改革は、何時も河内長野が関わってきたことが解る。
「大化の改新」では、豪族中心の「氏姓制度」から天皇中心の「律令制度」に、また「鎌倉幕府の樹立」は、従来の「貴族社会」から「武家社会」へ、そして「古代社会」から「中世封建社会」へと文明が大きく動いたことを示すものであった。
さらに秀吉による高野山との和睦により日本の宗教勢力は、武装解除させられ、日本は「近世」を迎えることになった。
さらにその「近世封建社会」から「近代社会」が開かれたが、その先駆が「天誅組の変」だったのである。

首塚なぜ日本の歴史の節目にこれだけ、河内長野が政治の舞台に登場してくるのであろうか。
単に京都に近いからだけでは、なさそうである。
地理的には、河内長野は、東西南北を「摂津、大和、紀伊、和泉」の四ヶ国に挟まれている。
さらにこれらの国々を結ぶ街道が走っている。
西から東には、和泉の国の槇尾山から藤井寺に至る巡礼道が、また南北には摂津の国・堺からの西高野街道と京からの東高野街道が、さらに西の和泉の国に走る和泉道と東の大和の国に走る大沢道。
そしてまた古代から修験者たちが駈けた抜けた金剛・葛城修験者の道(ダイトレ)は、宗教の道だけではなく、東西南北の情報を運ぶ道でもあったと推察できる。
これらのことが幾重にも絡み合って、「日本の歴史は、河内長野から始まった!!」のであろうか。
疑問は解けないが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊