河内長野のおかげ燈籠②お蔭年て何??【河内長野 こんなオモロイとこ!!】

 江戸時代“お蔭参り”というものがあった。
 20年毎の遷宮(宮うつし)の翌年は、“お蔭年(おかげとし)”と言われ、この年はいつもの年よりもなお一層のご利益、恩恵、いわゆる“御蔭”が授かると考えられていた。そのためお蔭年には、数百万人の参詣者が伊勢を目指した。
 江戸時代、このような民衆の大規模で熱狂的な伊勢参詣は、数回あった。
慶安3年(1650)の“慶安のお蔭参り”を初め、宝永2年(1705)、明和8年(1771)、そして文政13年(1830))と、ほぼ60年周期で大規模な参詣が起こった。
 さらに江戸末期の慶応3年(1867)は、お蔭参りの年ではないが、民衆は“ええじゃないか“と連呼して熱狂的に踊ったが、この時も幕府は信仰心による参宮ということで、特にお咎めや禁止などはしなかった。

 

 そして明治23年(1890)もお蔭の年であったが、この時は江戸期のように特に盛り上がることはなかったようである。

 伊勢燈籠は、伊勢参宮の道中安全を願って建立されたもので、その竿には“太神宮”と刻まれている。そして伊勢燈籠のなかでも“お蔭燈籠”と呼ばれるものは、御蔭年に伊勢参詣をしてきた人たちが浄財を出し合い、それを記念して建立したものである。
 松ヶ丘に “太神宮おかげ燈籠”が建っていて、次のように刻まれている。
 (正 面)(上)太神宮、(中)おかげ、(下)施行中
 (右側面)天保二年辛卯年九月 日
 (左側面)天下泰平、五穀成就(筆者注:天保2年:1831)
  
 
 ところで神宮には、伊勢だけでなく石上神宮や香取神宮、あるいは鹿島神宮もある。しかし伊勢神宮は、大神宮のうちでも最上位の「大大神宮」である。
 そこで「大大神宮⇒ 大神宮⇒ 大神宮⇒ 神宮」と表記も変わってきた、あるいは“はなはだしい”とか、“長上に対する尊称”の「太」を伊勢神宮に付け、伊勢を「太神宮」と呼んだとも考えられる。

また燈籠には、“施行中(せぎょうちゅう)”と刻まれているが、これは「僧侶や貧しい人に物を施し与えること」の意の仏教用語で、伊勢参りに行く人たちにお茶や食事の接待をしたり、わらじや小遣いの施しをしたりすることである。このように伊勢参りは、街道筋の人たちの好意で成り立っていたのである。
 一本の 柄杓で参る ありがたさ(誹風末摘花)

 ちなみに、この燈籠には“おかげ”と記されているが、“於かげ”、“御蔭”“お蔭”“御影”などと記された伊勢燈籠もある。
 なお河内長野では“太神宮”と刻まれた伊勢燈籠は多いが、松ケ丘のお蔭燈籠のようにズバリ“おかげ”と刻まれた燈籠は、市内では唯一ここだけである。
 ところで伊勢燈籠の建立が集中するのは、宝暦10年(1760)、明和4年(1767)~8年(1771)、そして安永3年(1774)、文政13年=天保元年(1830)頃である。そして河内長野で最古の伊勢燈籠は、喜多町の大日寺跡にある“太神宮夜燈”で“宝暦十庚□”と宝暦10年(1760)の銘が刻まれている。

(筆者注)
(上)太神宮おかげ燈籠
(下)おかげ燈籠(刻銘拡大)
                       R2・6・25  横山 豊