まちじゅう文化財がぎょうさん!!  tant ある河内長野(その2)

文化「財」には、名勝や天然記念物が含まれるが、文化「遺産」には、天然記念物などは含まれない。また国指定の「史跡」は、国宝や重文とは別のものである。
大阪府内で「国の史跡」に指定されている城跡は、五城ある。
まず大阪城。実力充分。誰もが納得。
そして残り4城は、奥河内にあり、千早城に、上赤坂城と下赤坂城、そして平成24年1月に指定された烏帽子形城である。ドウだ!! 参ったか!!
なお余談になるが、しかも自慢でもあるが、河内長野にある国指定の史跡は、この烏帽子形城跡のほかに、観心寺と天野山金剛寺がある。
これらの国の史跡も表現を変えれば、「地域の国宝」として捉えることができるのであるが・・・。
残念!!
まちじゅう文化財
話を戻そう。
文化財の多さでは、かって日本の都であった京・奈良を初め、鎌倉、名古屋、大阪、神戸には負ける。さらに宗教都市の大津市、高野町と日光には及びもつかない。
しかし世界遺産が一つもなく、この奥河内でこれだけ多くの文化財を保有していることは奇跡である。
そう忘れていた。河内長野も、かって南朝の都であったが・・・。
ちなみに、15位までを紹介すると、
13位は、安芸の宮島を抱える廿日市市で78件。
海上の神殿が魅力的。
14位は、西宮市。
えべっさん !! 今年もよろしく。ここにも78件の文化財がある。
15位は、九州で初登場の福岡市.
我が青春の町。その数72件。よか!! 九州一ならよか!!
なお、文化財は、全国規模で毎年指定されていくので、この指定数はドンドン変わる。
ふと気が付くと順位は、ズルズルと下がっているかも知れない。油断召されるな !!

それにしても河内長野には、なぜこれだけ多くの文化財が保有されてきたのであろうか。
疑問は残る。しかし考えられることは、
まず第一は、当地区が「畿内」に、特に「河内の国」であったこと。
まちじゅう文化財ここは東北や四国、九州などと異なり、都からあまり離れていない。逆に奈良、京都からほど良く離れていたからであろうか。遠く離れた地域に文化財が少ないのは、都からの距離が大きく影響しているからと考えられる。そして、

第二に、河内長野が「交通の要衝」であったことが考えられる。
東は水越峠を初め多くの峠を越えて大和の国に、西は千石峠を越えると和泉の国に通じる。そして南北では、高野街道を通じて北に堺、大坂、京、さらに紀見峠を越えて紀州に至る。そしてこれらを結ぶ街道が四方に走っている。河内長野は交通の要衝に位置していた。

第三は、西国三十三か所の巡礼道が東西に通り、南北を高野山への参詣道が貫き、また東の葛城山から金剛山と、さらに南の岩湧山を経て西の槇尾山施福寺に至る「金剛・葛城修験者の道(通称・ダイトレ)」が河内長野を取り巻いている。
従って、河内長野は、極めて宗教的な環境に取り囲まれた町。同行二人、あるいはお大師さまと共に、そしてまた役行者の修行を体得できる町とも言える。さらに、
まちじゅう文化財
第四には、これらの文化財は、寺社が持つ建築物や仏像など、寺社自身が守ってきたものもあれば、西代神社の神楽や流谷八幡神社の縄掛け神事など、あるいは仏像や曼荼羅図に代表されるように地域の住民が守ってきたものもある。住民パワー 恐るべし!!
だからこそ、これだけ多くの文化財が残されてきたのであろう。

我々もまた、先祖が残してくれた貴重な文化財をいかに保存し、後世に伝えていくか。これは我々の先祖や子孫に対する義務である。
文化財は、それが文化財と認められるには時間がかかる。しかし破壊するには時間は要らない。一瞬で破壊されることを忘れてはならない。
そして今後、行政のこれらの文化財に対する認識も重要であることを付け加えておこう。

                       楠菊亭 梅光(なんぎくてい ばいこう)