河内 烏帽子形城 探訪記(その2)

神社の境内の横から緩やかな坂道を登る。道は森の中を走り、気持ちが良い。足元も悪くない。腐葉土が堆積しているからか足には柔らかく、さらに水はけも良さそうである。
烏帽子形城探訪記2登りきると古墳広場に出る。
ここに6世紀・古墳時代後期の円墳がある。
高さ約3m、径約20m程度の規模であるが、河内長野市内では唯一の未発掘の古墳で、羨道(せんどう)と玄室(げんしつ)を備えた横穴式古墳と考えられている。
日本では、7世紀になると、各豪族は古墳の造営を止め、自らの氏寺を建立するようになる。そして古墳時代の終焉を迎えていくのである。
ここから北を眺める。眺望は極めて良い。北に市民交流会館を望む。さらに東北方向には、金胎寺城やその向こうに嶽山城(龍泉寺城)が望まれる。また当城の西南方面には仁王山城があるが、当地からは望めない。室町時代には、河内守護・畠山氏のお家騒動に端を発し、当烏帽子形城の争奪戦が繰り広げられ、そのため河内長野駅周辺は何時も戦場になっていたと推察される。

烏帽子形城探訪記2ここから南に尾根の上、馬の背道を歩む。
東北尾根と東南尾根の斜面の勾配は急で、しかも谷底との比高は20m以上もあり、容易にこの尾根には登ってこられない。
また谷筋には、「仁道門田」とか「仁興門田」など木戸(城門)の存在を窺がわせる小字や「仁道」や「道ノ下」など「道」を示唆する小字も見受けられる。
従って、両尾根に挟まれた右下の谷が大手道と推察される。そのため寄せ手は、現在歩んでいる東南尾根と谷を挟んだ向こう側の東北尾根からの攻撃に曝されながら当城を攻めてくることになる。
当時の戦いでは、弓矢や鉄砲による戦いが主流で、刀を抜いての戦いはほとんどなかった。いわゆる「飛び道具」の戦いであった。「飛び道具は卑怯なり」は、時代劇でのセリフで、実際の戦いは、弓矢や鉄砲による戦いであった。
さらに当城ではこの尾根上から投石や石落しなどもあったと考えられ、その名残が各地の城郭に「石落し」として残されている。

烏帽子形城探訪記2この付近の檜(ひのき)は、皮をむかれ、木肌が赤くなっている。
日本の建物の屋根は自然素材と人工素材で葺かれてきた。
自然素材には「藁(わら)葺き」に始まり「萱(かや)葺き」「檜皮(ひわだ)葺き」「杮(こけら)葺き」があるが、人工素材では「瓦葺」がある。
法隆寺が建立された1400年も前から「瓦葺き」の技術があったが、日本人はその後も自然素材にこだわってきた。そしてその素材を使う技術を受け継ぎ守ってもきた。寝殿造りの屋敷は檜皮で葺かれていたが、神社もそしてまた京都御所も例外ではない。
日本人の血の中に自然に対する何か特別なものがあったのであろうか。そして今後もこの自然に対するこだわりが継承されていくのであろうか。
現在、河内長野の寺社では、この檜皮を採るための檜が育成され、また岩湧山では茅場が保護されている。まことに喜ばしいことである。(H25・12・11 探訪) 
  横山 豊

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