河内 烏帽子形城 探訪記(その3)

烏帽子形城探訪記3ほどなく東南尾根の付け根に至る。
ここには右に東外堀と東土塁が構築され、さらに東南堀切が穿たれて、今まで歩いてきた東南尾根を切っている。
ここから少し登ると土橋に至る。右に東北土塁と東堀を、左に東南土塁と東南堀が構築されている。
興味深いことは、東堀と東南堀は少しずらして構築されていることである。東南堀を攻めてくる寄せ手と戦っている時、東堀から別の寄せ手に背後を窺がわれることは、極めて危険である。そこでこの土橋での戦いを少しでも有利にするため、二つの堀をこのような「当て曲げ」構造にしたと考えられる。
また土橋下の東南堀には、落とし穴のように一段低く穴が穿たれ、容易に土橋に上がってこられないようにしていたとも推察される。

烏帽子形城探訪記3この土橋を過ぎると腰曲輪である。
主郭(しゅかく)を頭とすると、曲輪は腰の位置に相当するので腰曲輪(こしくるわ)と、そしてその腰曲輪が主郭の周りをぐるっと帯のように取り巻いている場合は「帯曲輪」と呼ばれる。
この腰曲輪には、多くの兵を伏せ、待機させておくことができるので、「千人溜まり」とも称されている。
しかし現在、「こなら広場」との標柱が建てられているが、ここは烏帽子形公園であると同時に「国の史跡の城跡」であるから、やはり「腰曲輪」との標柱を立てるべきだと思うが、いかがであろうか。

烏帽子形城探訪記3そしてこの上が主郭である。
主郭は、その底の部分を北西に向けた細長い瓢箪形をしている。
眼下には石川が流れ、東には天見川が流れる。
当城は、西・北・東の三方を川で囲まれ、さらに南には甲山(こうやま)、現在の烏帽子台の住宅地との間の谷間に、寄ヶ峠(よっしや峠)から東に向かって池が連なり、烏帽子形山全体が川と池に囲まれた地形となっている。
そしてその寄ヶ峠もまた堀切構造になっており、南の甲山と縁が切られた地形を形成している。
主郭の足下は、切岸(きりぎし)が構築されているが、この烏帽子形城の北側全体に切岸が構築され、その防禦を固めている。
中村一氏(かずうじ)が天正12年(1584)に当城を改修してからすでに430年経っているが、主郭の西北面で崩れが見られないのは、岩盤に支えられているのか、あるいは堅い粘土質の地盤であるからかも知れない。

烏帽子形城の立地は、石川と天見川の合流地でその二川で外堀を形成し、足下に高野街道と和泉道(大津道)、さらに加賀田川(かがたがわ)に沿って九重道が走る。当城はまさに街道を押さえる所に構築されている。
そして街道沿いの寺院は、烏帽子形城の出城的役割を果たすように配置されている。
例えば、高野街道と九重道の抑えとして増福寺(ぞうふくじ)が、また南の押さえとして天見川に面して月輪寺(がちりんじ)が、さらに天見川から鳥居(とりい)坂を登ってくる寄せ手を迎え撃つために石仏寺(いしぼとけでら)を、さらにまた北の押さえとして石川を越え別区(べック)坂を上がってくる寄せ手に対しては、大日寺(だいにちでら)が迎え撃つように建立されている。

烏帽子形城探訪記3

川と池と出城、烏帽子形城の戦略的立地が目に見えてくるようである。(H25・12・11 探訪) 

  横山 豊

河内 烏帽子形城 探訪記(その1)
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