河内 烏帽子形城 探訪記(その5)

ここからいよいよ東南堀の中に下りていく。
烏帽子形城探訪記5堀の中は、快調に歩める。長年の腐葉土の堆積により足元のクッションはスコブル良い。しかもここは雨が降っていても森が深いので雨にかかることもないし、足元が濡れることもない。
東南土塁の切れる真下に堀内障壁(ほりないしょうへき)が構築されていた。
広がりをみせる東南堀は、ここで急に細くなり、さらに曲線を描いて見通しを悪くしている。だからこそ、ここに障壁が構築されたのである。
障壁は、畝掘の如く一部で深く掘られているが、この畝が何段にも渡って続いているかは不明である。堀内障壁が見つかった所でしか発掘調査が行われていないので、その数が数段続いているのか、ここだけしか構築されていないのか、あるいはさらに発掘していくと堀障子(ほりしょうじ)のように、畝堀よりさらに発達した堀内障壁が見つかる可能性もある。
烏帽子形城探訪記5逆に、もっと簡単な障害物として逆茂木(さかもぎ)が設けられていた可能性も考えられる。いずれにしても、発掘調査が行われない限り推測の域を出ない。

この堀内障壁は、関東の覇者・後北条氏が多用した防禦設備で、大阪府下では、当烏帽子形城と大坂城、そして後北条氏の狭山陣屋(大阪狭山市)でも見つかっている貴重な遺構である。
進んできた寄せ手は、ここで足を取られ前に進めない。
その間に東南土塁と腰曲輪から矢を射かけられることになる。正に絶妙の位置にこの堀内障壁は構築されている。

烏帽子形城探訪記5東南堀の西の端では、西堀と西堀切が接続している。
東南堀は、西堀と西堀切とは堀幅を変え、また西堀とは段差をもって繋がっている。堀幅の相違と段差は、寄せ手に心理的な影響を強いたと考えられる。
逆にまた、東南堀を進んできた寄せ手が退却しようにも、ここで堀幅が急に狭くなり、また西堀には登らなければならないので、退却が困難になる。
ここにも先人の知恵と工夫の跡が見られる。

ここから我々は、西土塁を右に見て、西堀切を進む。
真っ直ぐに進むと西堀切の外れから切岸が落ち込んでいる。この西土塁に一部で崩落の後が見られる。道を左に取り、西外堀切に至る。
現在、我々が歩いている道は、烏帽子形城の本来の道ではなく、新たに設けられた当公園の散策路である。本来の城の道は、散策路の右手上の土塁上であった。
烏帽子形城探訪記5西外堀切は、当烏帽子形城の城の内外を分ける最後の堀切である。しかしこのように重要な場所であるにも関わらず、構築ミスが見られる。一般的に、城郭では、城内と城外では、城内側が高い。しかしここでは城内側が低くなっている。なぜこのような構築ミスが起こったのか理解できない。

またここには竪堀(たてぼり)が構築されている。
堀には横堀(よこぼり)と竪堀があるが、横堀には、水堀と空堀、さらに泥田掘(どろたぼり)などがある。
横堀は、水平な場所において、兵の横への移動を妨げるために構築されたものであるが、兵が尾根を横に移動してくる場合もある。竪堀は、尾根での横移動を阻止するために構築されたものである。
我々はここから烏帽子形城の外へ出る。森の中をしばらく歩むと広場に至り、この下が寄ヶ峠である。
(H25・12・11 探訪) 

  横山 豊

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