河内 烏帽子形城 探訪記(その7)

ここで、筆者の独断と偏見、さらに我儘イッパイの感性により「烏帽子形・七話あれこれ」を選んでみた。
まず第一話は、歴史上における「烏帽子形城の登場」であろうか。
源頼朝の叔父・源行家(ゆきいえ)は、「長野ノ館・長野の城」に籠城したと『平家物語』に見られる。
「長野ノ館」は、当烏帽子形城に比定されているが、もしこれが事実なら、軍記物とはいえ、当城が文献に登場する初見で、時に寿永(じゅえい)2年(1183)のことである。

烏帽子形城探訪記7第二話は、何と言っても「楠公伝承」である。
当烏帽子形城は、楠公河内七城(千早・下赤坂・上赤坂(別称・小根田と桐山)・嶽山(龍泉)・金胎寺・烏帽子形)の一つとの伝承がある。しかし、文献には全く登場しないし、それを裏付ける遺物も発見されていない。
さらに南北朝期の城として、その標高・城地があまりにも低すぎ、城地には不適である。
千早城は674m、赤坂城は349m、嶽山城278m、金胎寺城296m、あるいは楠公の時代の城跡と考えられている石仏城では288mもある。しかしこの烏帽子形城の標高は、わずかに187mにすぎない。
これでは一晩で城は落とされるであろう。
現に、天正2年(1574)、当城を守備する宮崎針太夫(はりだゆう)は、河内守護代・遊佐信教(ゆざのぶのり)配下の草部菖蒲介(あやめのすけ)に奇襲を掛けられ城を脱出している。伊智地文太夫(いじち ぶんだゆう)らは、その草部氏に夜討を掛け,一夜で当城を奪還している。
当烏帽子形城は、数多くの文献に登場するが、寿永2年(1183)の源行家の籠城から大永4年(1524)の畠山氏のお家騒動までの350年間は、全く記録に登場しない。
従って、楠木正成と当烏帽子形城との関わりを示す文献はなく、当城を正成の築城とすることは、全くの憶測に過ぎない。
また殺人罪がない時代、敗けた方が負けの時代に、このように危険で立地条件が悪い所に城を築くはずがない。楠木正成がこのように低く危険な烏帽子形山に城を築いたとは、とても信じられない。
従って、当城の楠公築城説は、学術的にはやはり無理がある。
烏帽子形城探訪記7
第三話は「烏帽子形八幡神社・本殿造営と修繕」である。
昭和41年の解体修理で当神社の本殿の棟札(むなふだ)が見つかった。
これによると当神社は、河内石川源氏の末裔・石川八郎左衛門尉(さえもんのじょう)が、天明12年(1480)烏帽子形八幡神社の本殿を建立したことが判明した。
また元和3年(1617)、楠木正成の末裔と称する旗本の甲斐庄喜右衛門正保(かいのしょう きえもん まさやす)は、四天王寺の塔の修理の普請奉行を務め、その時の余材で元和8年(1622、)当神社の本殿を修繕している。(H25・12・11 探訪)  

 横山 豊

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