延段、奥河内の名刹で模様を描く(下)【葉隠の美】

延段南朝の後村上帝が摩尼院に、そして北朝の三上皇が観蔵院(現・奥殿)に住まいしていたことから天野山金剛寺は、南北朝時代の6年間、南朝の都であった。そのため“天野行宮”と呼ばれるが、また女人の参拝も許されていたことから“女人高野”との異名ももつ。さらに当寺では、“天野酒”を醸造していたことでも有名である。
金剛寺の延段は、本坊前から楼門に向かって敷き詰められている。
当寺でも延段は、真体で最初は真っ直ぐに伸びているが、途中から天野川と土塀の間を弧を描きながら果てるともなく続く。延段があまり長いと景色が単調になってしまうが、当寺の延段のように弧を描きながら歩むように据えられているとまた異なった趣があり心地よい。そしてこの単調さを打ち破るように配慮したのか、この延段は左右で異なった施工が見られる。仮に右が横長の石なら、左は縦長の石が敷き詰められ、そして途中から左右の延段の施工法が変わっていく。
延段この歩幅の狭い横長の石は、女性が着物を着て歩を進める幅になっているとか。逆に縦長の石は男性が大股で闊歩する歩幅になっていると言われている。そこでこの真偽を確かめるため、実際に歩いてみると、確かにならべられている通りに歩けるので、何となく納得した。
この延段の道は、金剛寺の境内を走り、千石峠を越えて和泉の府中へと向かっているので、和泉道と呼ばれているが、西国三十三ヶ所の4番札所槙尾山施福寺から5番の葛井寺を結ぶ巡礼道でもある。

役小角によって開かれたとされる観心寺は、弘法大師空海がご本尊の如意輪観音を刻んだことでも有名である。
延段この観心寺に恩賜講堂が建つが、この講堂は、昭和3年(1928)京都御苑に建てられた饗宴場の一部を当寺に移築したものである。
この講堂前の石畳は、定形化された長方形の石を一部の隙間さえないようにきちっと敷き詰められている。今の時代にこのような石畳を敷くのであれば、敷石の代わりにアスファルトやコンクリートが打たれるであろう。しかし講堂が移築されてきた当時、やはり石を敷き詰めるのが当然との考えから、このような石畳を敷いたと推察される。

金剛寺や延命寺は、山門をはいると勾配のない道を歩むが、ここ観心寺では、金堂まで何段もの石段が続く。そのため当寺ではゆるやかに坂を登る敷石は敷かれていない。
ここ奥河内を代表する三ヶ寺では、真っ直ぐに伸びる延段もあれば、曲線を描く延段もある。さらに建物の前面に広く敷き詰められた石畳もある。敷石は様々な模様を描いて我々を楽しませてくれる。

西岡本公平(にしおかもと こうへい)