中村輿次兵衛(その2)【スゴイ人】

“寺ヶ池とその井路”を構築した中村輿次兵衛(なかむら よじべえ)とは、どのような人物だったのであろうか。
寺ヶ池は、河内長野の上原(うわはら)村の庄屋・中村與次兵衛の発案により近江・膳所藩の領主・石川主殿頭(とのものかみ)忠総(ただふさ)に提案、構築許可を得て、市村(いちむら)の荒地・妙法寺平(現・千代田駅北側)を新田開発するため、赤峰台地北端の市村と小山田村の村境の旧・寺ヶ池を拡張して構築された河内長野最大の溜池である。
新田開発計画は、中村與次兵衛が棟梁(頭領)として実施したが、與次兵衛は中世以来の土豪で、開発当時は上原村の庄屋であった。そのためこの新田開発は「土豪開発新田」と呼ばれている。
ちなみに新田開発には、その開発主導者により「村請新田」「百姓寄合新田」「町人請負新田」「藩営新田」などの類型がある。
滝畑のあげ口から寺ヶ池までの井路の構築と寺ヶ池の改修は、寛永10年(1633)から慶安2年(1649)の16年間にわたって行われたが、この工事に延べ4万人が携わったと伝えられている。仮に、日に7人がこの工事に携わったとすると、
7人/日×30日/月×12ヶ月×16年=40320人で、述べ4万人が従事したと言う伝承も間違いではなさそうである。

なお、井路構築に当たっては、水路になった土地の税免除や水没地の替地、あるいは水利補償など、構築による補償も行われていた。
そして万治4年(寛文元年)(1661)に竣工したようである。
この時構築された井路は、約3里18丁(約13.8Km)で、今も寺ヶ池を満たし、千代田地区の田畑を潤している。また寺ヶ池からの井路と南海電鉄の線路が交差する所では、サイホンにより線路下を潜らせて今もなお水を送り続け、その遺構が“日本土木遺産”として登録されている。

ちなみに、寺ヶ池構築まで、市村の石高は、わずか6石だったのが、慶安5年(1652)507石、それが延宝2年(1674)には、615石と寺ヶ池改修前の100倍にもなった。そして明和元年(1764)の明細帳には、家数116軒、人口461人と記録されている。

寺ヶ池の北堤には、輿次兵衛の功績を長く記録に留めるために、次のように刻まれた碑が立てられている。
河内錦卩□ 野之宮新田 寺ヶ池 万治三庚子五月四日功、
翌年丑ノ三月中成就、本多下総守 代官 中村与次兵衛  (上面 樋長三十八間)
(筆者注)「河内錦卩□」は、「河内錦部郡」か、
万治三年庚子(1660)、万治四年辛丑(1661)=寛文元年

市村新田誕生の功績により、慶安5年(1652)5月、中村與次兵衛は、膳所藩の河内の永代郷代官に任じられると共に、市村新田に屋敷を与えられた。そして上原村は長男・多郎兵衛に任せ、次男・輿次兵衛勝長と共に市村新田に移ったが、その屋敷は南海電鉄・千代田駅そばの菱子池(ひしこいけ)付近にあったと伝えられている。
そしてこの寺ヶ池とその井路を守るために池守(いけもり)1名、溝手守(みぞてもり)2名が置かれていたが、今もなお、地域の人々によってこの井路は守られている。ちなみに、あげ口から水落までの井路は連合井堰(いせき)が、そして水落から寺ヶ池までの井路は寺ヶ池地区水利が管理している。
隠居した輿次兵衛は、極楽寺に入り、“裕和(ゆうわ)”と号し、寛文10年(1670)に没している。今でも輿次兵衛の功績を称え、中村家と寺ヶ池水利組合や極楽寺によって命日の8月5日に法要“ゆあんさん”が執り行われている。
これが“寺ヶ池とその井路”を構築した中村輿次兵衛(慶長5年又は6年~寛文10年)である。

奥河内の閑適庵隠居 横山 豊