中村輿次兵衛(その3)【スゴイ人】

中村輿次兵衛(その3)【あんな人・こんな人・スゴイ人】

“寺ヶ池とその井路”とは、どのようなものだったのだろうか。
池の東西は、自然の丘陵を利用しているが、南北は新たに堤防を構築し、北堤が約126mで高さ15m、南堤が約77mで高さ13m。そして池の規模は、東西約250m、南北約650mで、周囲約2.2Kmに及ぶ河内長野市内最大の溜池である。
ちなみに、貯水量は、約60万トンで大阪ドームの500杯分と言われるが、滝畑湖は、寺ヶ池の15倍の約900万トン、狭山池は、寺ヶ池の4.7倍の約280万トンもある。
水源は、池より南西に約8.5Kmの地・滝畑と日野の境に求めている。
寺ヶ池と狭山池や滝畑湖との大きな差は、この“井路”が有るか、無いかである。
狭山池や滝畑湖は、堤防を築き、そこへ自然の川が流れ込んで溜池ができ、その水を灌漑用水として利用し多くの田畑を潤している。例えば、狭山池には天野川(西除川)や三津屋川が、また滝畑湖には滝畑川が流れ込んで水が貯えられている。
しかし市村新田の開拓には、堤防を築いて寺ケ池を構築するだけでなく、そこに導く用水も確保しなければならず、川のない台地に築かれた寺ヶ池を満たすための井路が必要であった。
市村新田を考える時、貯水池としての“寺ヶ池”とその“井路”の構築が一体のものであったが、ここが寺ケ池が狭山池や滝畑湖と大きく異なる点である。
そしてそのために構築されたのが3里18丁(約13.8Km)に及ぶ“井路”である。
ちなみに南海電鉄の河内長野駅と中百舌鳥駅との距離が13.9Kmであるから、井路は長野から中百舌鳥まで人の手によって掘られたことになり、この井路のスゴサに驚く。

推古24年(616)に築かれた狭山池は、当時としては大工事であったと考えられるが、滝畑湖は、現在の土木技術で、しかも重機の使用が可能であることから、それほどの困難はなかったと思われる。このことは、寺ヶ池でも言えることで、江戸時代の土木技術の水準を考えると、池の堤を築くことなど何の問題もなかったであろう。あの大坂城の巨大な石垣を見れば、この池の提防を築くことなど何ら難しい問題は生じなかったと考えられる。むしろ、滝畑の滝尻に井堰(いせき)を設け、当池までの井路を構築することこそ、困難を極め大変な苦労があったと思われ、先人の努力と工夫にただただ驚ろかされ頭が下がる思いである。
井路の構築には、夜間に提灯を燈して土地の高低差を測り、井路の通り道を決めたと言われている。石垣と粘土により水漏れを防ぎながらの作業である。早く流すとすぐに崩れ水漏れを起こすので用水はできるだけゆっくりしか流せない。当時としてはセメントがないからやむを得ない対応であった。
山裾をL字型に切り開いて水路を設け、どこまでも進む。あげ口(取水口)近くでは、絶壁の裾にへばり付くように井路は走っているが、それでもいいよ進めない時は、岩盤を穿って堀貫(ほりぬき・トンネル)を設けている。岩盤の中に水路を走らす場合は、横からトンネルを堀り、堀貫内では上流・下流にそれぞれ別々に堀進んでいる。水路は、4ヶ所から掘り進められていたが、これは工期短縮と明かり取りのためと考えられる。また谷では迂回したり通水橋を架けて水を流している。
このように、寺ケ池では、井路までも構築しなければならなかった。そのため築堤工事だけで灌漑用水が確保できた狭山池や滝畑湖とは、また違った苦労があったと推察する。

この井路こそ“かんがい施設遺産”の定義にあるように“卓越した技術により建設されたもの”であり、その結果、“かんがい農業に発展に貢献したもの“と考えられる。

なお寺ケ池は、赤峰台地の北の端に構築されている。そして井路は、赤峰台地の東を寺ケ池に向かって走っている。自然が作り出した2Kmほどあるこの象の鼻のような形状の台地が、井路の構築に大いに役立ったと考えられ、もしこの台地がなければ、この井路は構築できたのか疑問であると共に、新田の開発は不可能だったのでは、と推察もする。

この井路を構築し、寺ケ池に水を貯め、市村新田を開拓した男、この人こそ中村輿次兵衛(なかむら よじべえ)なのである。

奥河内の閑適庵隠居 横山 豊