烏帽子形城(えぼしがたじょう)

所在地 大阪府河内長野市喜多町 烏帽子形山にある城跡。
烏帽子形公園となっており、烏帽子形八幡神社がある。 元弘2年 / 正慶元年(1332年)、楠木正成が拠る上赤坂城の支城で、楠木七城のひとつとの伝承があるが、もちろん史実ではない。文献もないし、遺物も発見されておらず、しかも城地が低すぎる。近世の城郭なら考えられないこともないが、南北朝時代にこのような危険な場所に城を築く愚かな武将はいない。楠公築城伝説は、大正から昭和初期に創作された伝承で、それを多くの人たちが勘違いしているのが現状であり問題でもある。もうそろそろ「楠木正成の七城の一つという間違った考えを改めるべき」と考えるが・・・。
室町時代・戦国時代には義就流畠山氏と政長流畠山氏の間で争奪戦が行われた。のち楠木正季の子孫の当主隆成が城主であったが、畠山定国によって落とされ、碓井定純が入城。元亀年間には甲斐庄正治に。正治はキリシタンで、城下でキリスト教を奨励し、南河内の一大拠点として大いに賑わいを見せた。
畠山氏滅亡後、烏帽子形城は岸和田城主である中村一氏の支城となり、天正12年(1584年)に改築なども行われはしたが、実践に用いられることは無かった。
大阪の陣で正治の子正房が幕府方として河内の道案内を行ったことにより、甲斐庄氏は戦後加増されて旗本として再び故地である烏帽子形城に戻ってくることが出来たが、大規模なこの城を維持できずに元和3年(1617年)に廃城処分にした。
今は整備されていて、主郭に難なくたどり着くが、昔は 神社の右側の道をたどりうっそうと茂った中をたどると、主郭へ通じる分岐点に至る。ここからの道は笹や雑木が道をふさぐ。 両手でかけ上げしながら走って通り過ぎる。子供の探検コースとして地元では子供の隠れた遊び場所だった。 最近では地元の子供達を交え烏帽子形城の合戦イベントも催されたらしい。 お城ファンにとって最近注目されている。
土塁 空堀 堀切とよく残っている。 普通は交通など不便な所にあるものだが、ここ烏帽子形城はとても便利なところにある。 駐車場あり 河内長野駅から徒歩15分