奥河内 石仏城 探検記(その4)
この小山が主郭である。 前回の調査では、この主郭の上部は土塁、そして主郭と曲輪との間には、堀切が構築されていたようであるが、この遺構ははっきりと確認できない。 主郭を右に見て、少し進むと、右手に主郭へ …
この小山が主郭である。 前回の調査では、この主郭の上部は土塁、そして主郭と曲輪との間には、堀切が構築されていたようであるが、この遺構ははっきりと確認できない。 主郭を右に見て、少し進むと、右手に主郭へ …
H26年(‘14)1月、初めて石仏城と左近城の探検をした。 その時、当石仏城に登城できること、さらにまたその登城ルート「鉄塔・城跡道」の確認もできた。 今回の探検は、それをより確かなものにすることと、 …
主郭は、草が生い茂り杉の林となっていて視界はまったくきかない。石仏城と確認できても、写真にもならない。文化財であるのだから、せめて雑木と草ぐらいは刈って欲しいものである。 当城は元弘三年(1333)、 …
南海・美加の台駅から国道371号線を渡り、急な坂を登ると曼荼羅山阿弥陀寺(まんだらさん あみだじ)、通称・石仏寺(いしぼとけでら)がある。 弘法大師・空海は、讃岐の祖谷渓で見つけた瑞光石で阿弥陀如来像 …
第三は、呼称の統一。 現在「主郭」には「本丸」と、また「腰曲輪」には「こなら広場」と明示された標柱が立っている。 中世・戦国時代の城郭遺跡に使われる主郭や堀切などの「学術上の呼称」を明記した標柱を立て …
「過去は、静かに佇み、未来は、ためらいながら近づいて来る」と聞く。 それならば、その未来に向かって、こちらから訪ねて行こう。 我々は今後、何をなすべきかを考えながら。 まず第一は、伝承と史実との混同を …
第四話は、「畠山氏のお家騒動と烏帽子形城を巡る攻防」である。 大永4年(1524)畠山稙長(はたけやまたねなが)は金胎寺城に陣を置き、烏帽子形城に軍を進めた。そしてこの後の天正2年(1574)まで畠山 …
ここで、筆者の独断と偏見、さらに我儘イッパイの感性により「烏帽子形・七話あれこれ」を選んでみた。 まず第一話は、歴史上における「烏帽子形城の登場」であろうか。 源頼朝の叔父・源行家(ゆきいえ)は、「長 …
当烏帽子形城で特筆すべきことは、この城が今から430年前、豊臣秀吉の紀州平定のために構築された城であるということである。 戦国武将、特に信長や秀吉にとって、各地を支配する武将や農民もさることながら、最 …
ここからいよいよ東南堀の中に下りていく。 堀の中は、快調に歩める。長年の腐葉土の堆積により足元のクッションはスコブル良い。しかもここは雨が降っていても森が深いので雨にかかることもないし、足元が濡れるこ …
この主郭で瓦葺の礎石建物が見つかっている。 北側の建物の柱間(はしらま)は、桁行7間(7m)、梁行2間(2m)(1間≒1m)、また南側のそれは桁行4間(10m)、梁行1間(2m)(1間≒2m)と北側の …
ほどなく東南尾根の付け根に至る。 ここには右に東外堀と東土塁が構築され、さらに東南堀切が穿たれて、今まで歩いてきた東南尾根を切っている。 ここから少し登ると土橋に至る。右に東北土塁と東堀を、左に東南土 …
神社の境内の横から緩やかな坂道を登る。道は森の中を走り、気持ちが良い。足元も悪くない。腐葉土が堆積しているからか足には柔らかく、さらに水はけも良さそうである。 登りきると古墳広場に出る。 ここに6世紀 …
南海・河内長野駅から西高野街道を歩む。旧西條橋を渡り、大日寺を通りさらに街道を進むとやがて烏帽子形八幡神社(えぼしがた はちまんじんじゃ)に至る。 石段を登る。 途中・右に恵比須(えびす)神社が祀られ …
南海・天見駅前の天見川と流谷川(ながれだにかわ)の合流地・出合の辻(であいのつじ)から流谷に入ると、視界が大きく開け、美しい渓谷が続く。この渓谷、昔は「そそぐ谷」と呼ばれていたようである。 毎年1月6 …
文化「財」には、名勝や天然記念物が含まれるが、文化「遺産」には、天然記念物などは含まれない。また国指定の「史跡」は、国宝や重文とは別のものである。 大阪府内で「国の史跡」に指定されている城跡は、五城あ …