浜口梧陵(その2)「村の堤防」  【関白のつぶやき】

「やっぱり出ていくのか」五兵衛は、寂しそうにつぶやいた。
これで村を捨てて出ていく者は何人になったであろうか。村に残っていても仕事はない。田畑は津波で流され、漁民は舟を失い、漁にも出られない。いやそれよりも多くの村人は住む家すら失っていた。生きる希望を失った村人に「村を捨てて出て行かないでくれ」とは言えなかった。
村人がいなくなれば、村は滅んでしまう。五兵衛は、米を寄付するだけでなく、私財を投げ打って家を失った者のために仮小屋を建て、農具や漁船を買い与え、さらに家屋修理の援助金を出すなど村人の生活を支援したが、村を捨てて出ていく者は後を絶たなかった。
「支援だけでは駄目なんだ。村人は困難から逃げている。困難に向かって立ち上がる力を失っている。力が湧くための支援がいる」
五兵衛は、村人が自らの力で困難に立ち向かい、自らの意志で村の復興に立ち上がってほしいと願っていた。しかし村人は五兵衛が支援すればするほど自立心を失っていくのであった。五兵衛は村人の経済的な支援だけではなく、心の支援も必要であることに気付いた。
さらに今後、災害をどのようにして防ぐのか。それも大きな問題であった。何か良い知恵はないものか。五兵衛は熟慮のすえ、一つの解決策を見出した。

「百年先まで安心して住める村を造ろう」
五兵衛は、村人たちに津波から村を守るための防波堤を築くことを熱く語った。
防波堤を築くことによって、他人に頼りがちな心を立ち直らせ、緩んでしまった心をもう一度引き締めたかった。防波堤を築くことによって村人に緊張感が少しでも甦ってくることを期待していた。「この村には、五十年か百年ごとに大津波が来る。防波堤を築けば、我々の子供や孫の代まで安心して暮らせる村になる。この防波堤は我々だけのモノではない。我々のため、百年先の子孫のためでもある。同じ苦しみを味わわないで済むように全員で防波堤を築こうではないか」
五兵衛の呼びかけに、村人はやっと立ち上がった。
家を片付け、田畑に積もった土砂や海から流れ着いたものを取り除き、昔の美しい田畑を取り戻そうと村人は必死になって働いた。さらに防波堤も築くことになった。

広川町・畠山堤防もう今までの村人ではなかった。百年先まで安心して住める村にするために、自発的に立ち上がった村人であった。村人は毎日土を運んだ。来る日も来る日も土を運んだ。運んでは盛り上げ、つき固めてはまた運んだ。
農繁期は、野良仕事で忙しかった。しかし農閑期には、村人は総出で防波堤を造る作業に加わった。女も子供も、年寄りも若い者も、皆、作業に加わった。村人の生活を安定させるため働ける者には皆、仕事が与えられた。しかも給金は毎日、仕事が終わると全員に支払われた。村人の生活が段々安定してきた。それに伴い村人の離散は減った。村に止まろうとした。村に止まって仕事をしようとした。
「我々のため、百年先の子孫のため」被災者である村人の一人一人が立ち上がり、村の復興に務めたのである。
「これで良いのか。もっと防波堤を強くできないか」
「木を植えよう。松などが良いのでは」  一人が言い出すと多くの村人も声を張り上げて自分の考えを言い出した。「ハゼも良いのでは」「植え替える前の状態で植えると枯れにくい」
村人はどうしたら自分たちが作った防波堤がより堅固になるか、積極的に自分の意見を言うようになっていた。
そこには、かって津波で打ちひしがれた村人の姿はなかった。困難に立ち向かい、大仕事をやり遂げて自信を取り戻した村人たちがいた。
かって津波が村を襲った時「稲むらの火」は命を守ってくれる灯火であり、安全への希望であった。 しかし今、防波堤を築くことは、村人の生活の安定のためだけではなく、生きる喜びであり、生きがいでもあった。働くことが生きがいに成っていた。皆のために働くことが自らの生きがいであり、それがまた幸せでもあった。

広川町 堤防 松並木三年経って防波堤は完成した。
村を守る防波堤、村人を守る防波堤、百年先の子孫を守る防波堤が完成したのである。
村人に仕事を与え、働く意欲を湧かせ、自立心を鼓舞し、何よりも村人に生きがいを与えた五兵衛に対する村人の思いには特別なものがあった。慈悲深く、崇高で献身的な行いは、格調高い人間の生き方を示していた。
私財の投入、村人の救済、地域の復興、どれをとってみても頭の下がる行いばかりである。五兵衛は村人の尊敬を一身に受けていた。何とお礼を言ったらいいのか、村人たちは皆で話あった。かっては、神や仏に縋るように五兵衛に接していた村人の気持ちは、今では信仰と呼べるものに変わっていたのである。

安政元年(1854)、安政南海大地震が発生、津波が広村を襲った。しかし翌2年には「住民 百世の安堵を図る」と言う言葉のもと、広村の堤防の築堤工事が始められた。
そして百年の後の昭和21年(1946)、昭和南海地震の大津波がこの広村を襲った。
しかし五兵衛ら村人たちが力を合わせて築いた防波堤は津波の襲来を食い止めた。百年先まで安心して暮らせる村は、村人の力で既に出来上がっていたのである。

横山 豊(よこやま ゆたか)
平成20年(‘08)5月26日 本稿 旧ブログに掲載済。