浜口梧陵(その6)『生き神様 浜口梧陵』 【関白のつぶやき】

広川町・畠山堤防 濱口梧陵(はまぐち ごりょう)(本名儀兵衛(ぎへえ))は、文政3年(1820)紀州・広村(現・和歌山県有田郡広川町)に生まれ、安政元年(1854)11月5日、安政東海・南海地震が発生した時は、35歳の若さであった。
この梧陵が行った村人の救出活動を『濱口梧陵手記』に見てみよう。

「巨砲の連発するが如き響きをなす。数回、伝え聞く大震の後、津波の襲い来るありと」
連続する大砲のような音を聞き、梧陵は、津波襲来の予兆ではと察し、村人に避難を呼びかけた。
「村民一統を警戒し、氏神八幡境内に立ち退かしむ」
そしてその後すぐに、津波が村を襲ったのである。
梧陵の呼びかけに多くの村人は、広八幡神社に避難、一命を取り留めたが、逃げ遅れ逃げる方向を見失った村人たちもいた。
そこで梧陵は「路傍の稲むらに火を放したむるもの重う余り」と田んぼに積み上げられた稲むらに火を放ったのである。「以って漂流者に其身を寄せ安全を得るの地を表示す」
暗闇に燃え上がった炎は、八幡神社を照らし出し、逃げ遅れていた村人たちも神社に辿り着けた。そしてそここそが安全の地だったのである。
梧陵の的確な判断と決断、そして迅速な行動、これこそが多くの村人を助けたのである。
広川町・稲わらここで梧陵の偉大さを考えてみたい。
まず第一は、“稲むらの火”に代表されるように、津波からの村人の救出。第二は、“村の復興”。
そして第三は、“防波堤の構築”である。

第一の津波からの村人の救出は、村にとっていかに重要な稲むらであっても、村人の命には替えられないと稲むらに火を点ける的確な判断と迅速な決断、そして素早い行動が見られる。
稲むらは村人にとって非常に貴重なもの。その稲むらに火を放ち避難路を示すという驚くべき発想。
これは、梧陵の家業・醸造業という商売柄が培ったものか、あるいは商人という立場がそうさせたのか、いずれにしても決断と行動の速さは飛び抜けている。

第二の“村の復興”では、梧陵は紀州藩に復興を願い出たが、支援は全く得られなかった。このま
までは村はつぶれると、梧陵は広村の復興に私財を投げ打つのである。
まず復興策として仮設小屋50棟を新築、無償提供すると共に、農具や漁具も、さらに玄米200俵も寄付している。
生活基盤の安定と職場の復興。そしてこの対応こそ、現在でも実施されている災害対策なのである。これを藩や幕府に頼らず梧陵個人で実施した。梧陵がいかにすごく、桁外れの人物であるかを示しているばかりではなく、人徳の高さと復興へかける梧陵の思いが感じられる。

広川町・畠山堤防第三の“防波堤の構築”では、津波襲来からわずか3ヶ月後、梧陵は、紀州藩へ復興計画の上申書を提出している。
「浪除(なみよけ)土手(どて)の造築、御免許(ごめんきょ)蒙奉候(こうむりたてまつりそうろう)。右工費は乍恐私(わたくしおそれながら)如何様(いかよう)にも勘弁仕(かんべんつかまつ)る」
梧陵自らが資金を出し津波を防ぐ波除堤防の構築を決意したのである。
幕府や藩は当てにならない。自分しかできないと、広村再建の長期計画に着手するのである。
この時、梧陵が計画していた堤防の規模は、15世紀初頭、畠山氏が築いた高さ1mほどの波除石垣の背後に大津波にも耐えうる全長900m、土手の基底幅20m、上端幅7.5m、高さ4.5mの巨大なものであった。
昭和13年、3年10ヶ月かけて築かれた長さ637m、高さ4.5mの大防波堤は、国の史跡に指定されている。
梧陵は、堤防構築の理由を次のように記している。
「災害百般の庶政に従事し、衆と共に生命を繋ぐも、今尚、坐して席の暖かならざるを覚ゆ。是れ築堤の工を起こして、住民百世の安堵を図る所以なり」と。
助かった命で村を再建しよう、住民百世の安堵をはかろうとする梧陵の思い、考え、呼びかけに、絶望し打ちひしがれていた村人たちも立ち上がったのである。
「日々之に従事するもの4、500人。老幼婦女と雖(いえど)も、多少の労働に堪(た)へ得る限りは之を使用し、一日の労働を終われば、それぞれ日当を給したれば、村民の喜び一方ならず」
翌安政2年(1855)10月2日、安政江戸地震が発生し、銚子の濱口家も大損害を被る。
そのような状況のもと、梧陵は、家業の再興を優先するか、広村の堤防構築を優先するかの選択を迫られたが、広村あっての家業と復興事業を優先して進めた。
この堤防構築事業は、広村を単に津波襲来前の姿に戻すだけではなく、前よりもより良く、より安全にするための工事であった。梧陵の偉大さは、村人に住居を与え、農具や漁具などの生産手段を与え、さらに築堤という公共工事で職を与え、村全体を復興していったことである。
そして安政5年(1858)12月、広村の堤防が完成した。
この時、堤防の補強を図るのは勿論のこと、津波の勢いを少しでも減らすためと、波にさらわれそうになった人を食い止めるために堤防の海側に数千本の松が植えられ、また堤防の補修費を賄うためにろうそくの原料であるハゼを植えて将来に至るまで存続可能な対策が打たれた。
「外面堤脚に松樹を栽うる数千株、堤内堤上に櫨樹を栽うる数百株」と。
ここに堤防の強度対策と、維持管理費の捻出という経済面での対策の相乗効果が見事にみられる。
そしてこの堤防こそ、世界で最初の津波対策の堤防だったのである。
梧陵は、なぜこのような復興を果たすことができたのであろうか。
まず第一に、おらが村の意識が強かった、郷土愛が人一倍強かったからと考えられる。
第二に、藩に上申書を提出しても埒が明かないことを肌で感じていたからであろう。
藩はダメ、幕府もダメ、では誰がする。自分しかできない。おらがしなくて誰がする。
この意識、この感覚、住民を救済するこの覚悟、これが梧陵を動かしたのであろう。
第三に、商人として家業を守ってきた気概があったからと考えられる。
梧陵にとって堤防構築は無償のビッグビジネスであった。人を雇い家業を守るには、経営センスが要求された。その資質を梧陵は持っていた。だからこそ築堤という大事業が成し得たと考えられる。

堤防構築から88年後の昭和21年(1946)12月21日、昭和南海地震が発生、津波がこの村を襲ったが、犠牲者を出すことはなかった。そしてこの時こそ、堤防の安全性が証明された時でもあった。
濱口梧陵、こんな日本人を知っていますか。
横山 豊(よこやま ゆたか)
【写真説明】
濱口梧陵(アメリカ ナイヤガラ瀑布にて)