新元号予想合戦(その2) でも元号って何!!

年号(元号)とは、紀年法の一種で、“時間の区切り方”の一つである。
なお紀年法とは、特定の年を“元年”とし、その次から2年、3年と順を追って数えていく年代の数え方である。
西暦では、キリストが生まれた年を元年とし、今年は2019年目の年になる。またイスラム暦では、預言者ムハンマドがメッカへ移った年(西暦622年)を元年としている。そして日本でも、戦前には神武即位の年を皇紀元年(BC660年)とする考え方があった。
韓国では、戦後の一時期、朝鮮神話の最初の王の即位を元年とする“檀紀(だんき)”があったし、北朝鮮では、金主席の生まれた年を元年とする“主体年号”を使っている。
これらはある特定の人物に何らかの特殊なことがあった年を元年とする考えである。
ところでイギリスでは、ビクトリア様式とか、エリザベス様式などとある特定の女王の治世で時代区分をしているが、これはそれぞれの時代にはそれぞれ独自の感覚や文化があるとする考えに基づいている。
また米国では、decade(ディケイド)と言って“10年間”を基準にした考え方があり、“50年代のファッション”などと言って時代を区分している。

このように現在でも世界中には独自の“時間の区切り方“や“時の数え方”をする国がたくさんある。
これは日本でも同じで、一つの時代を言い表す時、“明治男”とか、“大正ロマン”や“大正デモクラシー”とか、あるいは“昭和の香り”などとかの表現もあり、ある特定の元号がその特定の時代を代表する、あるいは一言で表現できる、あるいはまた特定の時代をイメージさせるツールとも考えられている。
これは世界には世界共通の時間、例えば西暦のようなものと、ある特定の民族や集団だけに引き継がれ活用されてきた固有の時間があるということを物語っている。
なお元号は、特定の権力者、例えば帝王の即位によって改元され、ある特定の期間だけに名前を付けて使われる暦である。
これは帝王が“時を支配する”という思想に基づくもので、元号を使用することは、その帝王への服従とその統治を認めるという意味を持つ。
江戸時代、江戸幕府が清朝に対し日本の元号を使わせようとしたことがあったが、清が抵抗したと聞いている。これは、わが国への服従を認めることになるからであろう。

ところで年号は、古代中国の前漢の武帝の時(BC115年頃)に始まり、その後アジア諸国で行われたが、現在では日本だけが使用している。
朝廷が最初に制定した年号は“大化”で、それ以降現在まで、247の元号が使われてきた。
なお大化以前には、民間で“私”に用いた年号、いわゆる私年号(しねんごう)が使われていた。この私年号は、社寺で使われ“法興”(591年)や白鳳、朱雀など仏教的な名称が多く、また鎌倉期には“永福”や“正久”が、そして南北朝期には“白鹿”や“福徳などの私年号が使われていた。
そしてまた南北朝時代には、南北両朝が独自に年号を制定したため、同じ年に二つの元号が併用して使われ、国民の混乱は大変なものであったと推察する。

従来、天皇一代の間に祥瑞や災害、甲子や辛酉(しんゆう)の干支によって何度も改元が行われたが、明治以降は“一世一元(いっせいいちげん)の制”が定められ、天皇の代替わりでしか新しい元号の制定はされなくなった。
これは、従来の“国民の元号”から“天皇の元号”に変ってしまったことを示しているが、明治までは、“一世一元”ではなく、吉兆や縁起、災害によって改元され、“国民の願い”が反映した元号に改められてきた。
日本の伝統的な改元基準こそ、本当の意味で“国民の元号”を生み出してきたと言える。

奥河内の閑適庵隠居 横山 豊
平成31(2019)・3・17投稿)

(筆者注)
(上)岩瀬 薬師寺(河内長野市)北朝暦“暦応”五輪塔
(下)三日市町 弘法大師 夜燈(河内長野市)