河内長野の小学校、二宮金次郎は、今どこで読書中??【河内長野 こんなオモロイとこ!!】

 ♪ 柴刈り縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲よく 孝行つくす  
 手本は二宮金次郎 ♪♪

 子どもの頃、このような歌を習った気がする。
この歌は、『二宮金次郎(にのみやきんじろう)』という曲で、童謡とも唱歌とも言われ作詞者、作曲者とも不詳とのことである。しかし明治44年(1911)に発行された『尋常小学唱歌』にはすでに掲載されていたようである。
  この曲の歌詞は、二宮金次郎(尊徳)を讃えるものであるが、その金次郎とはどのような人物だったのであろうか。

  二宮尊徳(天明7年(1787)~安政3年(1856))は、通称・金次郎と言い、江戸後期の相模国(現・小田原市)の農政家で、貧窮の中で苦学し家業に励み家を再興した。そして小田原藩をはじめ、600余りの農村の復興に尽力した人物である。
 なお唱歌の第一番は、金次郎の幼少期の生活を歌ったものである。

 金次郎が“修身”の教科書に登場するのは、明治政府にとって都合の良い人物だったからである。政府の意図する「清貧・勤勉・倹約」などの徳目をある特定の人物に付加し、政府として利用価値のある人物や理想像を作り上げていった。それが二宮金次郎である。
 そのため金次郎は、戦前には“修身”を代表する格好の人物となり、唱歌まで作られ宣伝された。

 金次郎像は、歩きながら読書をしているが、金次郎が読み書きを学んだのは、10代半ばからのことらしく、また10代前半に工事をしている村人にわらじを寄付したと伝えられているが。このことを実証する資料はなく、いずれも後世の作り話のようである。
 さらに10代半ばに菜種を育て、その収入で勉学に励んだと言われるが、この話は、金次郎が没して約80年後に書かれた伝記にはじめて登場し、その信憑性が疑問視されている。
 そのため、金次郎の人生が特に模範にならないことから、現在ではこの歌は歌われなくなっている。

 金次郎像は、生活のために山で採った薪を街に売りに行くときの姿と考えられており「負薪読書(ふしんどくしょ)」スタイルと言うそうである。
 ここで負薪読書の少年像に注目しよう。金次郎が持っているものは、当然のことながらスマホではなく書物である。
 そのため、この像が教えるものは、薪を担いで売りに行く“勤勉さ”、時間を惜しんで学ぶ“向学心”や“努力”、そして“読書の大切さ”などである。

 映像文化が盛んになり、現代はITの時代。パソコンを開くと世界中の知識が簡単に、しかも知りたい情報のエッセンスが瞬時に手に入る時代になった。
 しかし読書をすることは、一冊の本の中に描かれた大きな流れの中から著者の主張や重要な事柄を読者自らが読み取り見つけ出す行為である。
 一方、日常生活においても、様々な事象の中から何が正しいのか、何が間違っているのか、あるいは何が重要なのかを見分けられる判断力が求められる。

 “読書”をすることは、その最も重要な判断力が養えるからである。子供達に“読書を勧める”ことは、この重要な判断力を養う機会を与えることになる。
 最近、本を読まない人が増えていると聞く。それを裏付けるかのように判断力の欠如を思わせるような言動に遭遇することがある。由々しきことである。

 ♪ 骨身を惜まず  仕事をはげみ  夜なべ済まして  手習、読書 せわしい中にも 撓(たゆ)  まず学ぶ  手本は二宮金次郎 ♪♪  (『二宮金次郎』の2番)

 現在、我々は豊かな時代に生きている。しかしホンの70年ほど前、飢餓に苦しみ貧しい生活に耐えていた時代でもあった。その時代に、我々はこの歌を習った。
「手習、読書 せわしい中にも 撓(たゆ)まず学ぶ」この歌詞を忘れずに頑張って来た世代。その我々の世代が今の繁栄をもたらした。この歌を歌い、習った世代の我々が。
 そして何時の時代になっても、忘れてはならないものが、この二番には歌われている。

 河内長野には、13の小学校があるが、加賀田小、高向小、天野小の3校しか金次郎像は残されていない。時代が変わっても、金次郎像が示しているものは、今も昔も変わらない。金次郎像は、これからも大切に保存していってもらいたい貴重な文化財である。

(筆者注)
(上)加賀田小の金次郎像
(中)高向小の金次郎像
(下)天野小の金次郎像

                       R2・5・26 横山 豊