河内長野の諸越橋、今も健在!!【河内長野 こんなオモロイとこ!!】

  諸越橋(もろこしのはし) 河合寺村より長野村に架(わた)す。流れは右に
  いふ西條川にして、末は石川に会する所なり。 然(しか)れども 此地に
  いたりて 唐川(からかは)と号するゆゑに橋をもろこしの橋と俗に言ひ
  ならはせるものなるべし。長サ十二間許(ばかり) 巾二間 すべて組上
  にて橋柱(はしばしら)なし。上は丸太をならべて土をおけり。世に土橋
  (つちはし)と 号(なづ)くるものなり。両岸左右風景よし
   (筆者注)長サ十二間=約21.8m、巾二間=3.6m

 これが嘉永元年(1848)、暁鐘成になる『西国三十三所名所圖會』に記された描諸越橋(もろこしばし)の姿であるが、挿絵にはアーチ型の優雅な姿が描かれており、一幅の山水画を見るように素晴らしい。

 そして橋は「すべて組上げにて橋なし」と記されているように「橋脚なし」の木製の刎橋(はねばし)=アーチ橋だったようである。
 刎橋(はねばし)とは、両岸の岩壁に穴を開けて刎ね木を差し込んで中空に突き出させ、その上にまた刎ね木を突き出していく。これを何度も繰り返して徐々に刎ね木をせり出していき、最後にこの上に板を敷いて橋にする構造のものである。
 この工法だと橋脚の設置が難しい所でも橋が架けられ、しかも橋脚がないので、洪水で橋が流されたり、橋脚に上流から流されてきたものが引っ掛かり水がせき止められて周辺に洪水を引き起こす心配もない。
 ところで橋には、この諸越橋のように“土橋(つちはし)”で、かつ“刎ね橋”構造のものと、“板橋”で“橋脚”があるものとがある。
 土橋とは、桁(けた)を渡し、その上にそれと直角に丸太を並べたものであるが、このままでは橋面がデコボコになってしまうので、その上に土を敷き詰めて平らにし、歩き易くした構造の橋である。『圖會』には、刎ね橋と土橋が描かれていてその構造が良く解る。

 また橋名の“諸越”は、流れは西條川、石川に合流するが、当地は“唐川”と呼ばれているので“唐=から⇒もろこし”から“諸越”という字を当てたのであろうか、あるいは長野公園が諸越長者の屋敷跡との言い伝えがあり、その屋敷へ渡る橋だから、諸越橋と名付けられたとも考えられる。

 それでは諸越橋は、何時、誰が掛けたのか。『西国三十三所名所圖會』(嘉永元年(1848)刊行)には、橋が描かれているが、その約100年前の延享2年(1745)の文書に「土橋ができ」とあり、これが諸越橋の初見である。
 従って、この時まで、ここには橋が掛けられていなかったと解すべであろう。
そして明和2年(1765)、橋が落ちたので、仮橋を架け、架け替え普請の願いが出され、2年後の明和4年に橋は再建されている。
 また安永9年(1780)、橋に傷みがあり危険なので普請をさせてほしいとの願いが出されている。その後も文化14年(1817)、嘉永3年(1850)と普請が行われてきた。
 そして明治7年(1874)、架け替えの願いが出されるが、この時初めて堺県令に出された。
 なお現在の橋は、昭和27年(1952)に架けられた鉄製の橋で、橋長:23.4m、幅員:8.2mで河内長野駅前から五條に向けての国道310号がこの橋の上を走っている。

 ここで興味深いのは、江戸時代この諸越橋を架けたのは、誰かである。
橋を架けるには、莫大な費用が掛かるが、幕府も、そして膳所藩も神戸藩も、さらに狭山藩もその費用を負担することはなかった。それならば、この橋が架かっている長野村で全額負担すべきと考えられるが、実際は、この橋を必要とする地元の村々で分担していた。

当時でも受益者負担の原則からか、この橋を利用する川の西の村5ヶ村(長野・西代・古野・向野・河合寺)と東の村5ヶ村(寺元・鳩原・太井・小深・石見川)が、協同組合のようなもの、いわゆる“橋郷(はしごう)十ヶ村”を結成して架橋していたようである。
 これは大坂市内の橋が大坂の町人によって架けられたのと同じである。橋を架けるには、大量の“杭”が必要で、そのため莫大な費用が掛かり店の身代がつぶれるとの意味で“杭倒(くいだお)れ”と言われてきた。この言葉は、費用負担の重さを示したものとして今も残こされている。

 ところで諸越橋を石造りのアーチ橋に架け変えられないものか。
石造なら材料の劣化もないし補修も要らない、しかも美しい景観が楽しめる。ローマ時代の水道橋などは2000年経った今でも残こされている。朽ちず、丈夫で長く保たれる橋。諸越橋もこのような橋に造り変えてはどうだろうか。  
 ちなみに江戸後期から戦前までに架けられた石造りの橋は、全国に約1800あるそうだが、そのほとんどが中南部九州、特に大分、宮崎、熊本、鹿児島に多い。そして我々はそのような橋に出逢った時、石垣の持つ景観やその技術、あるいは人間の頑張りに驚嘆すると共に称賛もする。
 石造りの橋への造り変えは、この諸越橋に限ったことではない。市内全ての橋を改造していくべきと考える。そうすれば将来、ヒト・モノ・カネなどの資源を橋などに投入せず、もっと別の所に投入できるようになるのではないだろうか。

(筆者注)
(上)諸越橋『西国三十三所名所図会』河内長野駅側から瀧谷街道、長野公園を望む
(中)諸越橋と刎ね木穴
(下)諸越橋カード(大阪府富田林土木事務所 発行)
                      R2・7・2  横山 豊