紫陽花 河南の名刹・河合寺に咲く

紫陽花近鉄・河内長野駅から黄金橋を渡り諸越橋(もろこしばし)の方へ少し進むと、右に河合寺川が石川に注いでいる所がある。ここは鳴滝と呼ばれている。
この滝のそばの崖の中腹に胸にロザリオを掛け、首が欠落した女人像が立っている。この像は、隠れキリシタンが信仰したマリア像ではないかと言われている。
河内長野は安土桃山時代から江戸初期までキリシタンの町であった。切支丹宣教師・ルイス・フロイスの『日本史』には、烏帽子形城の領主の二人はキリシタンで、300人の住民もキリシタンであると記述している。
石川と河合寺川の合流する所に、諸越長者が捨てた箸で築かれた箸塚がある。河合寺に沿ってなお進んで行くと紫陽花(あじさい)の寺・河合寺に着く。
河合寺の歴史は古く『河合寺縁起』によると、皇極二年(643)の春、瑞雲が現れ、その導きによって飛鳥時代の政治家・蘇我入鹿(そがの いるか)が創建したと伝え、当寺はかって河南三大名刹「河合寺、観心寺、金剛寺」の筆頭寺院であった。
紫陽花の語源は、「あづさい(集真藍)」が訛ったもので、「あづ」は「あつ(集)」、「さい」は「さあい(真藍)」で、「藍色が集まったもの」を意味していると言うのが、最も有力な説のようである。
そしてこれは、青い花が集まって咲く様子を表していると考えられている。なお『万葉集』では、「味狭藍」や「安治佐為」などの当て字で記述されている。
紫陽花紫陽花は、もともと日本原産のガクアジサイが、昔、日本から中国へ持ち込まれ、それが18世紀、さらにヨーロッパへと伝わり、品種改良され、多くの園芸品種が生まれ、それが日本に逆輸入された。それがセイヨウアジサイである。
花の色は、土壌が酸性(青い花)か、アルカリ性(赤っぽい花)かによって変わると言われているが、花固有の遺伝的なものによって変化するとも言われている。そして花の色が変化することから、「七変化」などとも呼ばれている。
学名はギリシャ語で「大きな葉の水入れ」の意だそうで、日陰の、しかも水の豊富な梅雨時分がお好みのようである。
紫陽花は古くは万葉集に始まり、和歌や俳句にも詠まれてきた。そして文学書にはもちろんのこと、歌謡曲でもしばしば登場している。
紫陽花を語る上で忘れてはならないロマンスがある。
江戸時代、長崎・出島のオランダ商館に滞在していたドイツ人医師で植物学者のシーボルトは、この花に魅せられ、愛妾のお滝さん(楠本滝)の名前にちなんで学名の一部に「オタクサ・otaksa」の名前を入れたとのことであるが、すでに別の学名が付けられていたため、「オタクサ」の植物学としての学名採用はなかったようである。
河合寺から国道310号線を越えると、この前の山が長野公園である。この公園は、明治41年(1908)長野遊園地として開園している。この公園にも多く紫陽花の紫陽花が植えられている。
河合寺の紫陽花を楽しんだ後は、さらにこの長野公園の紫陽花を楽しむことができる。この長野公園から西に降りると、石川と天見川の合流する所に行者岩がある。
この行者岩は、昔、役行者がこの岩の上で修行したと伝えているが、明治の末、この川で遊ぶ子供たちを水難事故を守るためにこの岩の上に弁財天が祀られた。
河合寺と長野公園の紫陽花は、6月下旬から7月上旬満開になる。そして寺池公園や「奥河内の花樹と花園の道」でも紫陽花の花が楽しめる。またヤマアジサイは、6月中旬から7月中旬まで岩湧寺の境内や「いわわきの道」に群生している。

西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)