役小角 奥河内岩湧山で修行に励んだ!!【奥河内 神仏見楽記】

 河内長野は、役行者(えんのぎょうじゃ)と弘法大師の街である。
東・中・西と三つの高野街道が市内を南北に走り、当地は、京や堺あるいは平野と聖都・高野山とを結ぶ中継の街であった。そのため市内の寺院32ヶ寺のうち、その半分が真言宗の寺院で占められ、河内長野は真言宗の町、そしてその宗祖・弘法大師の町なのである。
行者堂
 そしてまた同市の東と南を、金剛山や葛城山の峰々が緑織り成して取り巻いている。切り立つ岩肌。深き森。清流の流れる谷。天と地が出合う聖なる場所。そして降臨した神々の棲む所。修験者が起伏した峰々。これが金剛・葛城の山々である。
その峰々を結ぶ道筋には、経塚が設けられ遠い昔から修験者たちの信仰を集めていた。この道こそ日本最古の縦走路である。
 しかし現在、この道は“ダイトレ”という、ワケの解らない名前が付けられている。この縦走路の歴史を少しでも知っていれば、このように陳腐で可笑しい呼称は付かなかったであろう。非常に残念!!
 かって、役行者を初め多くの修験者が修行したであろうこの道は
「金剛葛城・修験者の道」とか「金剛葛城・行者道」とか呼ばれるべきである。そうしてこそ初めて、この縦走路の意義が見出されるのである。
 飛鳥時代から1400年近く親しまれてきたこの縦走路をもっともっと大切にしたいものである。

 この行者道(修験者の道)を開いた役小角(えんのおずぬ)は、通称・役行者と言い、氏姓は「賀茂役君(かものえのきみ)」と伝えられ、京都・賀茂神社を祀る賀茂(鴨)氏の流れである。
行者堂元々は、大和国葛城山に住む呪術的山岳仏教の修行者で、山に住み、鬼神を意のままに使い、天翔け地を走る飛鳥時代の呪術者であったが、鎌倉時代頃からは修験道の開祖と呼ばれるようになった。 
役行者が奈良の大峰山山上ヶ嶽にその修行の場を移すまで、河内長野の岩湧山が修行の場であった。そのため岩湧山は“元山上”と呼ばれている。
 40年以上も前のことであるが、この大峰山に登った。
その時「禁制の 山に籠って明かす夜の 脂粉の香り 無きぞ哀しい」と言う歌を知ったが、その大峰山は、今も女人禁制を守っている。
 修験道にゆかりのある河内長野に多くの役行者が祀られていても不思議ではない。
「杖を持ち、高下駄を履いて岩座に腰掛けているアゴ鬚の老人」
これこそ数多くの石仏のうちで役行者を見分ける最も重要な点である。
 役行者は、九里石横の行者堂を初め、菱こ池地蔵堂やさくら池地蔵堂、あるいはまた石坂地蔵堂や新町の庚申堂、さらに太井のバス停前や小塩の行者堂にも祀られている。
行者堂 それぞれの地蔵堂では、「行者と地蔵尊」が合祀されていることが多いが、興味深いことは、菱こ池地蔵堂では、「役行者と地蔵尊と丸石神」とが、また小塩の行者堂では、「丸石神」と一緒に祀られていることである。なお、新町の庚申堂では市内唯一の露座の行者が、境内に鎮座している。
 我々日本人は、昔からこの丸石の神を祀ってきたが、仏教の伝来と共に、丸石神と地蔵尊を、さらに役行者も一緒に祀ってきた。菱こ池の地蔵堂では、我々日本人の神を祀る姿を今も伝えていて興味深く、また我が国固有の信仰がこのような形で色濃く残っていることは実に素晴らしい。
 世界の文明国で今もなおこのように原始宗教や山岳宗教が守られ継承されている国は日本をおいて他にない。そうした意味では、このような祀祭のあり方は、奇跡に等しく、我々は、この自然宗教をもっと深く認識し、評価すべきであると考えるが、いかがであろうか。(H26・ 2・7 散策)

楠菊亭梅光(なんぎくてい ばいこう)