奥河内の黄蝶(公孫樹・銀杏) 流谷八幡神社に舞う

南海・天見駅前の出合の辻から流谷に入ると、美しい渓谷が広がる。この渓谷に毎年1月6日、勧請縄掛け神事が行われる流谷八幡神社が坐している。
当神社の祭神・八幡神は、長暦3年(1039)1月6日、石清水八幡神社から勧請された。縄掛け神事は、御神体を縄を渡して移した時を再現をしているのである。
この神社の境内に樹齢400年と言われる公孫樹(イチョウ)の大木があり、毎年11月ごろ、黄色く色付いた紅葉を見ることができる。この公孫樹は樹高30m、幹回り5.5もある河内長野でも最大の大木である。
社伝によると寿永年間(1182~84)、源頼朝がこの公孫樹の木を寄進したとの言い伝えもある。これが事実なら樹齢は悠に800年を越えていることになるのであるが・・・。
それにしてもこの八幡神社には、この公孫樹の大木を始め、巨大な勧請杉もあるし、クスノキも半端な大きさではない。しかもここクスノキは河内長野でも最大級の大きさと言われており、当神社の古さが偲ばれる。
イチョウは、「公孫樹」とも「銀杏」とも書かれるが、この文字も振り仮名が打たれていなければ、なかなか読めないが、意味が判ると返って親しみが湧く不思議な文字である。
イチョウの語源には、諸説ある。その内で私が好きなものの一つに、葉の散るさまを「蝶」に見立て、「寝(い)たる蝶(いたるちょう)」が「イチョウ」になったとする説である。
与謝野晶子は、風に吹かれてヒラヒラと舞っている葉は、まるで小鳥のように見えると格調高く詠った。 「金色の ちひさき鳥の かたちして 銀杏散るなり 夕日の岡に」
また葉の形がアヒルの足(鴨脚)に似ており、それを中国語では「イアチャオ」と発音することから、これが転訛したとする説もあるが、あまり美しい説ではなく、好きになれない。
やはり、公孫樹の葉の散るさまを「蝶」や「小鳥」に見立てるほうが美しく優雅である。
イチョウを示す文字は二つある。
まず「銀杏」は、殻が「銀白」で、実の形が杏(あんず)に似ていることから名付けられた。そして「公孫樹」は、祖父が種を蒔いてもこの木の実が成るのは孫の代になってからであるとの意からこの字が当てられている。なお「公」は祖父の尊称である。
従って、イチョウは「公孫樹」と書き、ギンナンは「銀杏」と書くべきかも知れない。
いやむしろ私は「黄色い蝶」すなわち「黄蝶」と書いて「(キ)イチョウ」と表現する方が優雅で美しい好字だと考えている。そして今後は、この黄蝶を使っていきたいとも考えている。

元禄3年(1690)、長崎・出島に二年間滞在したオランダ商館付きの医師・ケンペルは、『廻国奇観』(1712年刊)で公孫樹のことを「Ginkgo、itsjo」と記述した。
そのため、学名は「Ginkgo biloba」と名付けられている。
ケンペルは、日本名の「ギンナン」の音読みを「銀杏(ギンギョウ)」と聞き、「Ginkgo」と記述したと考えられる。
なお、銀杏は「ギン・アン(ズ)、gin-ann(zu)」がギンナンとなり、特に訛ったわけではない。
黄蝶(公孫樹)の木は高さ20~30mになり、長寿で巨木になる。そして古いものでは、樹齢1000年を超えるものもある。
特に秋の紅葉は美しく色付いた葉はとても優美である。扇形の葉には切れ込みがあり、その葉は蝶が舞うように散る。華麗さの中にあわれさ、はかなさも織り交ぜて舞っているようである。雌株には実・銀杏がなり、茶碗蒸しの具にして食している。
そして大阪府の木は、たしかこの黄蝶(公孫樹)であったと記憶している。
黄蝶(公孫樹)は、ジュラ紀(2億1200万年前~1億4300万年前)に繁栄していたが、絶滅し、ヨーロッパでは化石でしか見られなかった。ケンペルは、既に絶滅していたと考えられていた黄蝶(公孫樹)が日本ではまだ生きており、その実物を見ることができたので「生きている化石」を発見したと思い込み、大いに感動したと伝えられている。
なお、流谷八幡神社の黄蝶(公孫樹)は、大阪府の天然記念物に、また長野神社の境内の黄蝶(公孫樹)は、河内長野市の保護樹木第3号に指定されている。さらに寺池公園の周遊道にも黄蝶(公孫樹)の並木が見られし、岩湧寺でも黄蝶(公孫樹)が楽しめる。そしてまた、盛松寺や延命寺にも黄蝶の大木が確認できる。河内長野市内には黄蝶の大木が多くあるようである。

西風狂散人(かわちのふうきょうさんじん)