愛しの“たし”さん/烏帽子形城のお姫様(上)きこへ有る美人、!!

美しい人がいる。名を“たし”と言い、戦国期の三大美人の一人と言えそうな人である。
ところで、我が国で美人と言えば、まず頭に浮かぶのが織田信長の妹・お市の方。『織田軍記』巻第六には「おいちの御方は、近國無雙ノ美人の由聞えあり」との記述がある。
そして明智光秀の女・細川ガラシャも美人の誉高い。
一般的には、このお二人が特に有名であるが、三人目の方が誰か知られていない。その三人目の方こそ、この“たし(読みは、”だし”、”出し”)”である。

でも“たし”さんは、お市の方や細川ガラシャほど有名ではない。ほとんどの人が知らない。NHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」(H26年放映)で荒木村重(むらしげ)の居城、伊丹・有岡城(ありおかじょう)の土牢に幽閉されている官兵衛(かんべい)の世話をしていたキリシタン女性こそ、この“たし”さんと言うと、何となく解ってもらえる。

ところでこの“たし”さん、戦国第一の美人と称されるが、悲しいかな、夫の村重が信長に謀反を起こしたため、天正七年(1579)、京都・六条河原で処刑されてしまった。

江戸初期に成立した織田信長の一代記『信長公記(しんちょう こうき)』「巻十二 天正七年」の項に、京都・六条河原の刑場に連れて行かれた“たし”の姿、振る舞いを次のように記している。

のがれぬ道をさとり、少しも取りまぎれず、神妙なり。たしと申はきこへ有る 美人なり。古しへは、かりにも人にまみゆる事無きを、(中略)
最後の時も、彼たしと申す、車より下様に帯しめ直し、髪高高と結い直し、小袖のゑり押し退きて、尋常に切られ候。

(意訳)逃れられない道と悟り、少しも取り乱すこともなく神妙である。村重の妻・たしという者は、聞こえ高き美人である。彼女は過って衆目にさらされることもなき身分であった。(中略)
最後の時、たしは護送の車を降りざまに帯を締め直し、髪を高々と結い直し、小袖の襟を押し広げ首を討たれた。
また、宣教師が残した記録でも
天性の美貌と貞淑さの持ち主で、常に顔に大いなる安らぎを示していたが、車から降りる
前に、頭上の振り乱れていた髪を結び、身だしなみをより保つため、腰帯を締め、時の
習慣に従い、幾重にも重ねた高価な衣装を整えた。永遠の懲罰も來世の栄光も知らぬ
異教徒として、即座に幾つかの詩句を作って朗吟した、
とこの“たし”さんの立ち居振る舞いを称賛している。

わが身が打たれるのに少しも取り乱さず、何という気品のある気高き振る舞いであろうか。この時“たし”さんは、21歳の若さであった。

また『立入左京亮宗継入道隆佐記(たてり さきょうのすけ むねつぐ にゅうどう りゅうさき)』には「だし殿と申して一段の美人。異名は今楊貴妃」とあり、“たし(だし)”さんは、世界で一、二を争う美人の一人・楊貴妃(ようきひ)に例えられるほどの美人だったようである。

「今楊貴妃」と記した立入宗継(たてりむねつぐ)は、彼女が有岡城の大手の出し「だし」(出丸・出城)の御殿に住んでいた女房だったから“たし(だし)殿”と呼ばれていた、とその名の由来を記しているが、本名は“ちょほ”と言ったようである。
これは、水戸に住んでいるから“ミと様”など、住んでいる場所から○○様と呼ばれた愛称や敬称と同じである。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

愛しの“たし”さん(中)岩佐又兵衛の母
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