中村一氏(下)日本の中世を終わらせた男

中村一氏が築き、しかも国の史跡に指定された烏帽子形城とは、どのような城であったのだろうか。

烏帽子形城は、標高182mの烏帽子形山の山頂部に築かれている。麓を高野街道が走り、当城の北に大日寺、善福寺が、また南には、月輪寺、真教寺、正保寺、増福寺が置かれ寺院が出城的役割を果たすように配されている。
当城は、瓢箪型の主郭と逆L字型の腰曲輪を5つの土塁と4つの横堀が取り囲み、尾根には4つの堀切が設けられ、さらに北には切岸が構築されている。このように当城では、多くの土塁や横堀が残り、その保存状態は極めて良い。

一般的に日本の近世の城郭は、天正4年(1576)織田信長が築いた安土城に始まる。この信長と豊臣秀吉に始まる城郭を「織豊系城郭」と呼び、「石垣の構築」「礎石建物」「瓦の使用」がその三要素である。
烏帽子形城は、織豊系城郭の二要素(礎石建物、瓦葺)を備えており、当城は、中世・戦国期の城郭から近世(織豊系)城郭へと発展していく過渡期の特徴が見られ、当城は日本の城郭構造の発展過程を知る上で極めて貴重な遺構である。

当城を築き紀州が平定された時、我が国では、宗教勢力の武装解除が行われ、宗教者が武力を持つ時代は終焉したが、中村一氏による烏帽子形城の改修こそ、日本の中世を終わらせ近世の扉を開く基となったもので、日本の近世は、当城から始まったと言っても過言ではない。

平成24年1月、当城は国の史跡に指定されたが、中世の山城が国の史跡に指定されたのは、昭和9年以来78年ぶりである。ちなみに、大阪府下で国の史跡指定の城跡は、5城(烏帽子形城、大坂城、千早城、上赤坂城、下赤坂城)のみである。 このように、中村一氏こそ「日本の中世を終わらせ、近世の扉を開いた城・烏帽子形城」を築いた男なのである。

それにしても残念なのは、このように歴史的価値のある烏帽子形城が「日本100名城」にも「続日本100名城」にも選らばれていないことである。選ばれなかった理由は、何であろうか。そしてこれだけの観光資源がありながら、それを活かせない河内長野は、一体、どう考えているのであろうか。
一氏もさぞかし、悔しい思いをして嘆いているのでは!! “俺が築いた烏帽子形城が日本の「100名城」にも、「続100名城」のも入っていない”とは!! と。

ところで当城でも「国史跡 烏帽子形城」と銘打ってスタンプを作成してはどうだろう。現在、烏帽子形城に登ってもその証しがない。しかし横堀や土塁、主郭周辺の鳥瞰図など、烏帽子形城の特徴を前面に押し出したスタンプを作れば、素晴らしい登城記念になるのではないだろうか。
なおスタンプは、烏帽子形八幡神社の社務所や南海電鉄・河内長野駅前の観光案内所に置くのも良いのかも知れない。そして河内長野が誇る国の史跡・天野山金剛寺や観心寺と共にスタンプラリーを実施すればさらに素晴らしい観光資源になると考えられるのであるが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

中村一氏(上)国の史跡を築いた男