中山忠光(その2)討幕派の盟主

京都の公家・中山忠光(なかやま ただみつ、弘化2年(1845)4月13日~元治元年(1864)11月5日)は、官位を辞し、しかも無断で京都を脱し、さらに名も森俊斎(秀斎)と改名して長州に赴いた。
そして文久3年(1863)5月10日、光明寺党の党首として長州藩の軍船“庚申丸”に同乗し、攘夷戦に参戦した。この戦いが世に言う下関事件であるが、翌元治元年(1864)の英米仏蘭四ヶ国への攘夷戦、いわゆる四国艦隊下関砲撃事件では、長州は下関を占領されてしまった。
そしてこの時、その軍事力に裏打ちされた列強の強さを実体験した忠光は、“攘夷は無謀・不可”と認識した。

しかし列強の軍事力の強さ、国力を知らない全国の諸藩が攘夷を決行すれば、日本国中が侵略され、日本は欧米の列強に占領され植民地になってしまうとの危機感を持った。
日本は軍事的に弱者の立場であると認識したが、同時に経済的にもダメージを受けていた。

このような状況において、このまま幕藩体制が続けば日本はダメになると危惧した忠光は“攘夷”よりも“討幕”が必要と認識するようになった。
従って、この時点で忠光は、従来の“尊王攘夷派”から“尊王討幕派”にその考えが変っていったと推察される。そしてこれが文久3年(1863)8月17日の“天誅組の変”が起こる起因でもある。

8月13日、孝明天皇の攘夷祈願のための大和行幸の詔が出されると、天誅組は“皇軍御先鋒”あるいは“攘夷先鋒の勅令を報じる”と称し大和へ赴いた。
攘夷決行が無理なことを実感している忠光は、ここで討幕運動の先駆けとして天領の五條で挙兵、長州藩と呼応し全国規模で討幕を進める予定であった。
そして翌14日、忠光は大和行幸の先陣を切るため京の方広寺に40名ほどの同志を集めていた。

ところで天皇が攘夷の成功を祈願することは、天皇が軍事に介入することを意味し、逆に言えば軍事において朝廷は幕府を無視することになった。従って、この行幸は、天皇の復権を幕府が黙認し、それを公表するようなものであった。
そしてまた不平等な通商条約を列強に強要されたのは、幕府の弱腰外交によるものと考えられ、それが逆に天皇への期待となっていった。

そして8月17日、忠光ら天誅組は五條代官所に討ち入り約7万石の幕府領を朝廷直轄地とし櫻井寺において「五條新政府」樹立の宣言をしたのである。
しかし8月18日の政変により天誅組は皇軍先鋒の大義名分を失い、幕府・朝廷両方の逆賊となり、討伐を受ける立場になってしまった。

京都守護職松平容保は、乱の鎮圧と天誅組討伐に紀州藩、津藩、彦根藩など総勢約1万3千人に出陣を命じたが、このように多くの幕府軍が投入されたのは、天誅組が“討幕”を掲げていたからである。そして9月24日、天誅組は東吉野村で追討軍と激戦、壊滅してしまった。
なお中山忠光は6名の従者と共に竹内峠を越えて大坂・長州藩邸に逃げ込み、その後、長州に潜伏した。従って、天誅組の討幕行動は、わずか40日ほどに過ぎなかったが、この変の後、幕府を倒し中央集権国家を作る必要性を感じていた薩摩・長州両藩は、同盟を結び武力による討幕を推し進めた。
幕府対天誅組、戦力差はあまりにも大きい。そのためこの天誅組の動きは、若い中山忠光を盟主とした暴挙と考えられがちであるが、彼らの行動は、この5年後に明治維新となって実を結んだのである。

慶安4年(1651)、由比正雪ら浪人が起こした“慶安の変(慶安事件・由比正雪の乱)”は、江戸幕府開府以来260年の間で唯一の幕府転覆計画である。しかしこの事件と天誅組の変とでは、その性格は全く異なる。どちらもは画期的な事件であったと考えられるが、“天誅組の変”こそ本当の意味で日本最初の討幕運動であった。

それではここで長州藩と共に攘夷戦争をし、その後天誅組の盟主となった中山忠光のプロフィールを見てみると、
忠光は、江戸末期の公家で、姉の中山慶子は、孝明天皇の皇后で明治天皇の生母である。従って、忠光は明治天皇の叔父になるが、元治元年(1864)11月5日、わずか19歳で長州・長府藩で暗殺されてしまった。
もし忠光が長生きしていたら、その行動力や影響力などから明治政府における彼の立場は、三条実美(さんじょう さねとみ)や岩倉具視(いわくら ともみ)などの公家の比ではなかったと考えられる。
【中山忠光の辞世】
思ひきや  野田の案山子の梓弓  引きも放たで 朽ち果つるとは

ところで長州・長府藩潜伏中には、侍妾・恩地登美(おんじ とみ)の間に仲子・のちの嵯峨公勝夫人をもうけている。
余談ながら、清朝最後の皇帝でのちに満州国初代皇帝となった愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の弟・溥傑(ふけつ)夫人は、この忠光の曽孫にあたる。

また、明治後期・大正時代の中国の政治家・孫文(そんぶん)の号“中山“は、明治44年(1911)日本亡命中、忠光を祭る中山神社を知り、中山忠光の”中山”を自分の“号”にしたと伝えられている。もし伝えられている通りなら、この当時、孫文は、清国を倒し中華民国を建国するという大きな使命を持っていたが、同じ使命をもって活動した忠光と自分自身とを重ねて号したのかも知れない。
あるいはまた、孫文が日本亡命中に住んでいた日比谷公園近くに中山邸があり、その門柱の表札の文字が気に入り、自らの号を“中山”とし、日本に居る時は“中山 樵(なかやま きこり)”と名乗っていたと言われている。ちなみにこの中山邸の主こそ忠光の兄・忠愛の子の中山考麿である。

ところで天誅組の参加者67名中、水郡善之佑(にごり ぜんのすけ)ら河内勢が14名、そして吉村虎太郎ら土佐藩出身者が18名と多い。なぜ河内勢や土佐勢が多いのか。
そしてまた水郡、吉年、上田など、錦織郡の豪農たちが、なぜ討幕運動に参加したのか、さらにまた当時18歳の中山忠光に何を求めて付いて行ったのか、未だに解らない。いくら新時代を夢見て行動を起こしたとしても、やはり疑問が残る。

それにしても今日の日本を見ていると、なぜ若者を中心とした“現代の天誅組”が現れないのであろうか、不思議である。150年前は、多くの若者が燃え立った時代であった。しかし現在の若者はなぜ燃え立たないのであろうか。若者の力こそ世の中を動かし変えていく原動力であるが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

(筆者注)
(上)五條・桜井寺 五條新政府碑
(中)東吉野村 天誅組終焉の地碑
(下)中山忠光像(山口県下関市 中山神社蔵)
(下)孫文「中華民国50年」切手(アメリカ 1961年発行)