中山忠光(その3)天誅組は、討幕派!!

天誅組の“政治的立場・思想“について、二つの見解がある。
一つは“尊王攘夷派”、もう一つは“尊王討幕派”であるが、天誅組とは何かを考える時、まず幕末の列強との交渉を見なければならない。
文久2年(1862)の生麦事件は、翌年、薩英戦争に発展、薩摩藩は鹿児島湾で英国と砲火を交えたが、この戦争に負けてしまい薩摩藩は賠償を求められた。そしてこの時、薩摩藩は英国の軍事力の巨大さを知り“討幕”に舵を切った。
また元治元年(1864)、長州藩は、“尊王攘夷”の立場から四ヶ国(英国、米国、フランス、オランダ)と砲撃を交えた。これが攘夷決行戦争、いわゆる四国艦隊下関砲撃事件である。そしてこの戦争において、長州藩も外国勢の強さに驚き“攘夷は無理、不可能”との藩論になった。
この下関戦争に参戦していた弱冠18歳の中山忠光も外国勢の強さに驚愕。全国の諸藩が攘夷を決行すれば、日本の全土が外国に占領され、植民地になってしまうとの危機感をもった。そのため、この戦争以降、長州藩も中山忠光も幕府を倒して“新しい政治体制を構築”しないと日本の独立が守れないとの認識から両者の政治的立場、思想は“尊王攘夷派”から“尊王討幕派“に変わっていった。これが“幕末の政治思想の変化”である。
このように下関戦争を経験し、長州藩は討幕に変わっていくが、中山忠光を盟主とする天誅組のみ未だ“尊王攘夷派”のままであるはずがなく、その忠光が、天誅組の盟主になったことは、”天誅組=尊王討幕派“と考えなくてはならない。
だからこそ天誅組は、孝明天皇の大和行幸に乗じて討幕の兵をあげたのである。
天誅組の思想の本質は、“尊王討幕”であるから、五條の幕府代官所を襲撃しているのである。
仮に天誅組が“攘夷派”のままなら幕府の代官所など襲撃せず、どこかの藩と一緒になって相変わらず外国船に砲撃を加えていたであろう。攘夷派が幕府の代官所を襲う必要などあろうか。
天誅組が討幕派であることは、天誅組のその後の行動をみれば明白であり、その思想の実証が“幕府の五條代官所の襲撃“なのである。
ある組織の政治的思想が判断できない時は、その組織の行動を見れば、自ずとその組織の思想が判る。どのような行動をしたのか、が判断の基準となる。
そして天誅組の思想もその行動も“討幕”そのものであるからこそ、後の世になって“早すぎた討幕運動”と言われるのである。
下関戦争や薩英戦争などを経験した長州藩も薩摩藩も“藩内の思想が変化”し、討幕へと動き出す。そして忠光も“幕府の代官所襲撃”を行う。いずれを採っても“討幕”の動きである。さらに言えば、幕府代官所を襲撃した天誅組も幕府を倒した長州藩や薩摩藩も相変わらず“攘夷派”であろうか。歴史的事実を知れば“天誅組=討幕派”は、動かせない歴史的事実である。
現在でも学会には“天誅組=尊王討幕派“と“天誅組=尊王攘夷派”の両派があるようであるが、歴史的事実からみれば、いずれ“天誅組=尊王討幕派“と認識されていくであろう・・・。
重要なことは、このような“幕末思想の変化”に対する認識があるかどうかである。

それにしても興味深いのは、幕末に思想的に全く反対の組織が生まれている。
滅びゆく文明、いわゆる幕藩体制や封建制度を守ろうとする“新選組”、そして逆に幕藩体制を崩し、新しい政治体制を構築しようとした“天誅組”。真逆の思想が京都で生まれ、そしてどちらの組織も崩壊し壊滅している。

ところで天誅組と新選組、いずれが有名であるかと言えば、新選組の方に軍配が上がる。幕末もののドラマでは幾度も登場しその存在がよく知られている。近藤勇、土方歳三、沖田総司など新選組にはスターがいる。
しかし天誅組には、スターがいない。そのためか、天誅組の存在すら知られていないのが実情ではないだろうか。
しかしながら天誅組が日本の歴史に与えた影響は、新選組の比ではない。この討幕運動に参加した関係者の数でも段違いである。
なぜ、天誅組の早すぎた討幕運動が、ドラマ化されないのであろう。なぜ主将の中山忠光(19歳)や総裁の吉村虎太郎(27歳)、あるいは水郡善之佑(38歳)たちがスターにならないのであろうか。不思議である。

そこで中山忠光や天誅組のことをもっと知ってもらうために、毎年8月18日(新暦の9月29日)に“天誅組”のイベントを開催するのも良いかも知れない。
イベントの一つは、“天誅組の武者行列”の開催。
武者たちが河内長野市の古野に集結し、そこから東高野街道を進み、南海電鉄の河内長野駅から三日市宿の油屋跡を経由して観心寺までの行列である。
イベントのもう一つは、参加者自身がが“天誅組ウォーク”を楽しむもので、散策ルートは、近鉄・川西駅から水郡(にごり)邸、河内長野駅、三日市宿、観心寺まで。
なお開催日は猛暑を避けて新暦の9月29日に開催するのも良い。
いずれにしても、観光資源は、自ら創り出していくべきものと考えるが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

(筆者注)
(上)薩英戦争「英艦入港戦争図」(尚古集成館蔵)『ビジュアル日本の歴史 12』より
(中)下関戦争図(横浜開港資料館蔵)『ビジュアル日本の歴史 12』より
(下)天誅組軍旗(米田知代氏所蔵)市立五條文化博物館「志士たちの肖像」チラシより