中山忠光(その1)討幕運動の機運

日本の政治史上にいくつかの大改革がある。
まず第一は、“大化の改新”、第二は“鎌倉幕府の成立”、そして第三は信長、秀吉による“武家政権の確立と中世の終焉”、さらに第四は“明治維新”、そして第五は、第二次世界大戦の敗戦によりもたらされた“言論の自由”と“民主主義”の確立。
河内長野は、そのいずれにも関わってきた。
大化の改新では、氏姓制度から律令制度に、それは“豪族中心”から“天皇中心”に変わる改革であったが、この体制を構築するための知恵袋が、河内長野出身の国博士・高向玄理(たかむこの くろまろ)である。
そして鎌倉時代、貴族政治(古代社会)から武家政治(封建社会)に変わったが、その政権を握ったのが河内源氏の源頼朝であった。さらに戦国期には、烏帽子形城を築城することにより、中世が終焉し武家が唯一の政権であることを全国に示した。
さらにまた明治維新、これは約700年に渡る封建社会(武家政治)から近代社会(市民政治)へと大変革がなされたが、その先駆が文久3年(1863)の“天誅組の変”であった。なお平成25年(2013)は、その150周年にある。

いわゆる“幕末”とは、嘉永6年(1853)のペリー来航から慶応3年(1867)の大政奉還までの15年間を言うが、この短い期間、日本は激動の時代でもあった。
特にペリー来航により幕府は、従来の“上位下達”方針を止め“下から”の意見を求め、さらに諸大名や旗本ではなく、御家人出身の勝海舟を軍艦奉行に就任させるなど、人材登用も行った。
この“人材登用”と“上位下達の中止”は、幕府自らが封建秩序を変えたことを意味し、そのため幕府の御威光に陰りが出始めると共に天皇復権の要因ともなった。
この時まで天皇の存在すら知らなかった民衆は、幕府に変わる別の権威として天皇の存在を認識し始めたのである。
このようにぺりーの来航は、“尊王論”を呼び起こしたが、安政元年(1854)の日米和親条約の締結は、“尊王論”に“攘夷”が加わり“尊王攘夷論”が出てくるきっかけとなった。
ちなみに“攘(じょう)”とは、“追い払う、退ける”、“夷(い)”は、“異民族、外国”の意で、“攘夷”とは、“異民族を追い払う”の意である。
さらに安政5年(1858)の日米修好通商条約は、日本に関税自主権のない、そして外国人には治外法権を認めるなどの不平等条約であったが、そのため国内経済は混乱し、このような条約を結ぶ幕府の権威は失墜し、攘夷運動の激化を招くと共に討幕運動が起こる機運を作り出したのである。
このように幕末の思想は“尊王論”から“尊王攘夷論”へ、さらに“尊王討幕論”へと変わっていった。
奥河内の閑適庵隠居 横山 豊

(筆者注)
(上)ペリー来航図(横浜開港博物館蔵)
(下)ペリー来航図(横浜みなと博物館蔵)