中山忠光(その4)天誅組の不可解な行動

天誅組の行動には疑問がある。京から五條へのルートの取り方が不可解である。
まず行軍ルートの日程と距離であるが、実際は行軍していないが「京⇒五條」直行ルートなら奈良道を南下すればよく、しかもこの道なら約70Kmの平坦な道で2日の日程で行ける。
にもかかわらず、実際の天誅組の行軍ルートは「京⇒大坂⇒堺⇒河内⇒五條」への迂回ルートを採っており、この道は、約110Kmもある峠越えの道で、距離は「京⇒五條」への直行ルートの1.5倍、しかも4日間も要し日数も倍かかる。
なぜ、このようなルートを採ったのであろうか?? なぜ遠回りをしてまで河内へ向かったのか、不可解である。
8月14日、京・伏見を出発した中山忠光ら39名は夜船で淀川を下り、大坂・土佐堀の長州藩蔵屋敷で船を乗り継ぎ、堺に上陸、西高野街道を歩んでいる。
そして16日午後2時頃、甲田村(現・富田林市)の水郡善之佑(にごり ぜんのすけ)邸に到着、滞在した。ここで河内勢13名が合流している。
そして翌17日午前2時に水郡邸を出発、午前3時頃、三日市宿の旅籠・油屋(河内長野市三日市町)に到着、軍議をした後、午前8時頃油屋を出発。
観心寺(河内長野市寺元)の楠木正成の首塚にお参りし、戦勝祈願をした後、同寺で休憩、作戦を練り、午後2時頃当寺を出発している。従って、観心寺に5時間近く滞在していた。なお三日市宿に到着した時には、太鼓と鐘を打ち鳴らしていたと伝えられている。
そしてこのルートを採ったため、千早峠を越え、岡の八幡神社(五條市岡町)を経由、五條代官所への討ち入りは、同日の午後4時頃であった。
このように富田林の水郡邸を出発してから五條の代官所への討ち入りまで14時間もかけている。なぜこのように回りくどいルートを採ったのか。なぜ京から直接五條へ行かなかったのか、不可解である。
天誅組はなぜ河内国へ、しかも三日市宿へ足を延ばしたのか、考えられることがいくつかある。
まず第一は、“ヒト”、すなわち地元の兵力と人足の活用が期待できたこと。
天誅組67名中、河内国からの参加者は14名で、天誅組の2割は、河内勢で占められていた。
さらに、三日市宿は脇街道の宿駅として幕府の規定により人足25人、馬25匹の常備が義務付けられていたことも三日市宿に立ち寄った理由として考えられる。
なお討ち入り当日の18日、天誅組は、人足55人、駕籠10挺(ちょう)の継ぎ立てを求め、彼らを連れて千早村へ、さらにその一部はそのまま五條まで行軍し、討ち入りの翌日、三日市宿に帰っている。
第二は、“モノ”、すなわち武器の調達が可能であったこと。
河内長野には、狭山藩領があり、ここでは猟銃の使用が許されていた。また鬼住村(現・河内長野市神ガ丘)でも狩猟用として鉄砲の所持を認められていた。
すなわち当地には武器があることを認識しての行動と考えられ、天誅組が狭山藩に立ち寄った時には“皇軍”と名乗り武器の調達を命じている。
そして第三は、“カネ”、すなわち軍資金が集められ易かったこと。
宿場では日常的に現金が動き、軍資金の調達ができるとの判断から、三日市宿に立ち寄ったのではないだろうか。
そしてまた天誅組は、伊勢神戸藩の長野代官・吉川治太夫から軍資金として藩の公金218両を借りている。しかし変後、治太夫は神戸藩に災いが及ばないようにと責任を取って古市で切腹。なお治太夫は、河内長野の石坂の明忍寺に葬られている。
このように三日市宿に足を延ばしたのは、これらの“ヒト”、“モノ”、“カネ”の調達が容易であったからと考えられる。
そして迂回ルートを採った第四の理由は、楠木正成の首塚にお参りしたかったから。
鎌倉幕府が始まって以来、いわゆる封建時代が始まって以来約700年間、天皇親政を“是”とした武将は、楠木正成誰一人であった。
源頼朝も足利尊氏も、そして織田信長も豊臣秀吉も、そしてまた徳川家康も、誰一人として天皇に政権を引き渡す意思を持った武将はいなかった。逆に天皇や公家たちも自らが政権担当能力がないと認識していたと推察される。
そのため中山忠光は、天皇親政を“是”とした楠木正成を尊敬していたので、戦勝祈願をするための“精神的な拠り所”を求めて観心寺の楠公首塚へお参りしたのでは、と考えられる。
そしてこれこそが、河内への迂回ルートを採った第4の、しかも本当の理由ではないだろうか。
水郡邸を夜明けの2時に出発し、午後4時に五條の代官所に討ち入りするまでの14時間の内、1/3の5時間、観心寺に留まっている。5時間近くもの異常に長時間の滞在は、ここで“精神的な拠り所”を求めたためではないだろうか。
なお、首塚に戦勝祈願をした時の『祈願文』が残されている。
建武中興の業は公の先唱に依りて成りぬ、
今亦我等一統復古の先駆たらんことを期す、
仰ぎ願くば是に英霊の冥助を垂れ給わんことを、

ちなみに忠光の父・大納言中山忠能(ただやす)は、楠公精神に陶酔し、観心寺に寄進もしている。
なお忠能が正成に傾注したのは、武家として日本史上で唯一の天皇親政の理解者、信奉者であったからか。理由は、よく解らないが・・・。

奥河内の閑適庵隠居  横山 豊

(筆者注)
(上)天誅組出発之図(水沼睦子氏蔵)
市立五條文化博物館「志士たちの肖像」チラシより
(中)五條代官所 長屋門
(下)観心寺 楠公首塚

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